枚方人権まちづくり協会主催の講演報告書 「生きること」

9月28日(水)「生きている喜び 〜チャレンジは果てしなく〜」
  車いすの元気配達人    柳岡(やなおか) 克子(よしこ)
○司会 それでは、定刻の二時になりましたので、二〇一六年度、第四回目の講座「生きること」を開催したいと思います。
 私は、司会進行を務めさせていただきます社会教育課の宮澤と申します。よろしくお願いいたします。
(拍手)
  まず、皆様にお願いしたいことがあります。携帯電話をお持ちの方は、電源をお切りいただくか、マナーモードに設定していただきますよう、お願いいたします。
 また、記録用にお写真を何枚か撮影させていただきますので、あらかじめご了承ください。
 それでは、本日お招きいたしました講師の柳岡克子さんのプロフィールをご紹介いたします。
 柳岡克子さんは、昭和三十九年十一月に和歌山県御坊市でお生まれになられました。手足に重度の障害を持ちながらも、お母様の送り迎えで健常児と同じ幼稚園、小・中学校を卒業されました。神戸学院大学へ進学し、在学中、手動式の車の運転免許を取得し、寮で自炊して暮らし、薬剤師の国家試験に合格しました。卒業後、薬剤師として働いていた時、障害卓球と出会い、全国身体障害者スポーツ大会で金メダルを取られました。その後、パラリンピックを目指し、卓球の世界大会で好成績を残しておられます。
 今回の講演では、柳岡さんが歩んでこられた半生を振り返りながら、命の大切さや、「生きること」についてお話ししていただくとともに、皆様に障害者や人権について考えていただく機会になればと思っております。
 それでは、講演に入りたいと思います。講演の後に質問や感想などをお受けする時間を設けたいと思っております。
 それでは、柳岡さん、どうぞよろしくお願いいたします。皆様、拍手でお迎え下さい。お願いいたします。
(拍手)
○柳岡(やなおか) 克子(よしこ) 柳岡です。皆さん、こんにちは。枚方市というところに初めて来させてもらったんですけれども、よろしくお願いします。
 人権に関心をお持ちの方ということで、大変うれしく思っておりますけれども、今日は楽しく一緒にやっていきたいと思いますので、手を挙げてくださいと言ったら、遠慮なく「はい」って手を挙げてくださいね。よろしいですか。
 今日は、歳の話はあまりしたくないですけれども、四年後に東京でオリンピックがありますが、その前の東京オリンピック、ご存じの方?その年に私が生まれたんです。で、もう歳わかったでしょう。
 皆さん方は、「ワンワン」って生まれましたか?「コケコッコー」って生まれましたか?では、「オギャー」って生まれた人?
(数名の受講者の手が挙がる)
 覚えていますか?
(受講者の笑い声)
 皆さん「オギャー」って言ったことを覚えていますか?覚えていないでしょう。
(受講者の笑い声)
はい。じゃあ、私は何と言って生まれたかといいますと、「オギャー」って言わなかったんですね。仮死状態といいます。お菓子状態とは違いますよ、チョコレート。おかしい。ここ、笑うとこ。はっはっはっ。
(受講者の笑い声)
 死にかかった状態で生まれたということですね。さあ、私、和歌山県でも御坊市といいまして、白浜より北寄りですけれども、県庁所在地の和歌山市よりは南の安珍清姫で有名な道成寺の隣の町です。今日は二時間かけてここへ来させていただきました。
 というところで、御坊市ではちょっと、「オギャー」って生まれなかった赤ちゃんは、産婆さんではとても対応できないので、和歌山市内の大きい病院に行きました。一時間ほど北ですね。そこで、お医者さんに診てもらって、手術したりマッサージしたりリハビリしたり、看護婦さんやリハビリの先生にお世話になって、やっとヨチヨチ歩けるようになりました。皆さん、また聞いてみましょう。一歳ぐらいで歩けるようになった人?
(数名の受講者の手が上がる)
 歩いてる自分の姿、覚えてる?覚えてないでしょう。はっはっはっ。
(受講者の笑い声)
 私は、二歳半まで歩けなかったんです。歩けるようになったので、退院して、御坊に帰ってきました。皆さん、また聞いてみましょう。保育所へ行った人?幼稚園へ行った人?
 はい、半々ぐらいですね。私は、お寺さんが経営している幼稚園に行きました。幼稚園に行ったらお友達ができますね。絵本があったり、ぬいぐるみがあったり。
(受講者に柳岡克子さんそっくりのぬいぐるみを見せる)
これ、かわいいぬいぐるみなんですけど、わかりますか?似てる?
○受講者 ああ。
○柳岡 克子 ああって。今、心の中で、こっちのほうがかわいいって思いましたか?はっはっはっ。遠慮なくどうぞ。
(受講者の笑い声)
 こっちはね、十年前に作りました。こっちは歳をとりません。それはかわいいですよね。はっはっはっ。で、こんなかわいいぬいぐるみがあって、私もこのぬいぐるみが欲しいなと思いました。そしたら、横から男の子が、僕のものと言って取りに来ました。さあ、皆さんはどうしますか?けんかする人?ゆずる人?自分が取る人?
 じゃあどうしますか?手が挙がらなかった人はどうしますか?仲よく遊ぶのにはどうしますか?
 日本では、もめ事を起こしたときに、「じゃんけん」というすばらしいツールがあるんです。
○受講者 ああ。
○柳岡 克子 皆さん、じゃんけんを知ってますか?
○受講者 はい。
○柳岡 克子 国によっては「じゃんけん」を知らない国もあります。コインを投げて、裏裏、表表とかね。
 じゃあ、日本人なんでちょっと「じゃんけん」をしたいと思います。よろしいですか?
○受講者 はい。
○柳岡 克子 最初は「グー」でいきたいと思います。皆さん、手を上げてください。「グー」出して。私とじゃんけんするんですよ。いいですか?はい。
 最初は「グー」、じゃんけん、ほい。
(柳岡克子さんが右手を高く上げるが何を出しているかわからない)
 はい、勝った方、下ろしてください。
 はい、今、「パー」を上げて、勝ったと思って下ろした方、ブブブブブー。負けです。なぜか?
 私、これ、一生懸命にチョキを出している。わかりますか?
 じゃあ、「グー」はこれで、「チョキ」はこれで、「パー」はこれ。
(少し手のひらが開くがほとんど同じように見える)
はっはっはっ。「わからん」って言ってくださいよ、遠慮せずに。
(受講者の笑い声)
 小学校でこれさせてもらったら、後ろのほうの男の子、「おばちゃん、わからん」って叫びますよ。正直ですね。皆さんは何かちょっと、大人の顔をされる。言ってはいけないのではないかという、バリアを持ってるんじゃないですか。
 じゃあ、こんな不自由な手のお友達がいたら、皆さんどうしますか?
 いじめる人?私、克子と書いて「よしこ」と読みます。克子ちゃんは、「グー」しか出せない手だから、いつも「パー」を出して「勝った、勝った」という悪ガキがいたんですね。そのとき私は、何でこんな手なんだろうと思いました。これが初めて障害というものを感じたときだったんですね。
 じゃあ、皆さんが幼稚園の私のお友達だったらどうしますか?もう「じゃんけん」をやめて、克子ちゃんがこれ貸してあげてばっかりにする、それはおかしいよね。
 そんなときにね、小さいメモ帳があって、こんなメモ帳に、今日はちょっと拡大してきました。こういうふうに。これね。
(A4の大きさに拡大したカードを見せる。そこには「グー」「チョキ」「パー」と書いている)
これだったら、このメモ帳をシャッフルして、いいですか?このメモ帳を相手に戦ってみてください。はい、皆さん、最初は「グー」じゃんけんほい。
(カードをシャッフルして取りだしたら「チョキ」と書いている)
ほら、これだったらちゃんと「チョキ」だとわかりますね。いい考えでしょ。頭いいよね。
 皆さん、思いつきましたか。こういうふうに考えたら、手で「じゃんけん」ができなくても、一緒に「じゃんけん」ができるじゃないですか。ちょっと工夫すればできるんですね。
 さて、幼稚園が終わったら、次、どこに行きますか?はい、せーの。
○受講者 小学校。
○柳岡 克子 「ピンポーン」ですね。小学校に行きます。でも、普通の小学校へ行こうと思ったら、教育委員会のちょっとした会合があります。そこで体の不自由なお子さんは、特別の支援学校へ行くとか、特別の支援学級で勉強するとか、いろいろ考えてくれるんです。私をどこへ入れたらいいだろうという話し合いの会のときに、今日、運転してきてくれた父が、どうして皆と一緒に御坊小学校に入れないのか聞きました。そしたら、「一人でおしっこができないから」と言われました。皆さん、一人でおしっこできますか?
(受講者の笑い声)
 はい、今はですね。はっはっはっ。将来はわかりません。
 私、今、歳は言いたくないけど、五十二歳ですね。当時、小学校に入る頃は、四十六年ぐらい前のことかな、ポータブルトイレというのが出始めた頃ですね。今でこそ、病院とか老人ホームに行けばどこにでもあるものですけど。
 父が今ちょうど到着しました。後で「若い」って言ってあげてください。「八十二にもなって、大阪まで運転してきて偉いですね」と言ってあげてください。喜びますから。車線変更が恐かったけど。
(受講者の笑い声)
 父は、インターネットなんかない時代にポータブルトイレを探してきて、小学校の女子のトイレは七つぐらいお部屋があるんですけど、その中の一つのお部屋にポータブルトイレを置かせてもらった。それで、手すりをコンコンコンコンって、父が金づちを持ってきて壁に取りつけてくれました。今でしたら小学校はもう洋式トイレなんかなければいけないという法律がありますけど、当時はそんなものなかったのです。実際、私ぐらいの障害の人は支援学校に入るべきだったんですが、御坊市周辺にはなかったんです。今はありますけどね。
 和歌山市内に行くとなったら寮生活とか言われて、大変な時代でしたからね。だから、できるだけ地元の小学校に行きたかった。
 母が朝送って夕方迎えにくるという格好で御坊小学校に入れてもらったんですけれども、入学式の日に担任の先生が、「このクラスには体の不自由なお友達がいるけれども、決していじめたり泣かしたり、突き飛ばしてはいけませんよ」と言ってくれました。
 おかげで学校に行くのが楽しくて、幼稚園の時にこれを考えてくれたお友達も同じクラスだったりして、うれしかったですね。
 でも学校に行きたくない日がありました。どんな日だと思いますか?
 はい、それは、時間割に体育の授業がある日です。この日は、私はできないから、危ないからという理由でいつも見学させられました。よりによって、隣が風邪引きの子。私、風邪引きじゃないでしょ。でも横で、ゴホンゴホンと。「うつさんといてよ、私風邪引いてない、あっち向いてよー」とか言って。そういう状態で、毎回ルールをメモしたり、審判をやらされたり、感想を書かされたりばっかりで退屈だったので、廊下を走り回っていたんですね。そうしたら、授業をやっている先生が、「やかましい」とか言って、「図書館で本でも読んどけ」って、図書館にほうり込まれていました。体育の授業中はずっと図書館で本を読むようになって、ですから本が大好きになったりしてね。それで、今、執筆活動をしたりしているんですけどね。
 そういう体育の授業は嫌だったんですけど、ある夏の日、「今度の体育の授業は柳岡さんも一緒にプールで泳ぐ練習しましょう」と言われました。「えー、私浮き輪がないと泳げないし、学校では浮き輪を使えないからいや」と言いました。先生は、「お母さんにも着替えをしてもらわないといけないので一緒に来てもらえますか」と言いました。
 先生は、手のこぎ方、顔のつけ方、足のバタバタ、全部教えてくださって、最初は十メートル、「泳げたー」って、次、十五メートル、二十五メートル。「やった、よく頑張った」って、最後は五年生の時に、プールの端から端まで五十メートルを浮き輪なしで泳ぎ切ったんですね。クラスのお友達も先生も、プールサイドで「よう頑張った」って拍手をしてくれて、私もうれしくてね。頑張ればできることもあるのだと思ったときは、ほんとうにうれしかったです。
 そうやって、御坊小学校を卒業しました。次はどこへ行きますか?
○受講者 中学校。
○柳岡 克子 そうです。御坊中学校というところに行きました。障害のあるお子さんを普通学級で受け入れるのは初めてだったので、小学校の先生は張り切って、「何とぞよろしく、よろしく」って言って、「頑張り屋さんなんでね」って言って、丁寧に引き継ぎをしてくれました。
 中学校の先生も張り切って、「克子ちゃん、大丈夫か、いけるか、気をつけてよ」って優しい言葉をいつも私にかけてくれました。
 これがどっこい、思春期でしたからね、やんちゃな連中の多い学校だったんです。言われましたよ。「柳岡、ちょっと来い。あんたね、足不自由やと思って、先生にひいきされてない」って。「ひいきしてなんて頼んだ覚えはないのに」って言いましたけど。でもね、その子たちにとったら、先生の気を引きたいと思ってやんちゃしているのに、先生に怒られるのはいつもその子たち。ほめられるのは私。むかついたんですね。ある時、「なめんなよ」って言われました。なめたくもないです、きたならしい。
ところが、テスト前にやんちゃな連中にまた呼びつけられました。「柳岡、ちょっと来い」と。「わー、怖いよ、今度は殴られるかもしれん」と思いましたね。そうしたらね、「試験どこ出るか教えろ」と。やんちゃな連中は、授業を真面目に受けていないから、あまり大事なところがわからないんですね。ですから、私に出そうなところを教えてくれと。やっぱりいい点を取りたいんかな。それで、「ここ出るかもしれない、覚えといたらいいよ」とか言ったんです。そうしたら、それがばっちり出て、私も間違ったことを教えて、殴られたら悪いので、ちゃんと勉強して、一生懸命教えました。そうしたらそれからというもの、試験前の休み時間に私の周りをやんちゃな連中が取り囲むようになりました。そんな時、廊下を歩いていた先生は、私の席の位置をわかっているでしょう。その付近にやんちゃな子がいっぱいたむろしているでしょう。真ん中に私が座っているのが見えたので、中でボコボコにやられていると思ったみたいで、先生は廊下から、「柳岡、大丈夫か」って飛び込んできたんですよ。私は先生の顔を見上げて「はあ、先生、何」って言って。先生は、ほっとした様子で「大丈夫ならいいんだ、何してるの」って。私は「テスト前やから勉強やってた」と言うと、「あ、そうかそうか、オッケー、オッケー」って出ていきましたね。
 そうやってやんちゃな連中とも仲よくなってしまってうまくいったんです。
 でもね、思春期というのは、やんちゃな連中が暴れまくるばっかりじゃない。私も思春期でしょ。むかつくことはいっぱいありますよ。クラスの仲がよかったお友達が、放課後一緒に宿題やろうと言ってくれた時です。私はうれしかったです。そうしたら、自転車に乗ってだれだれちゃんのところに集合って。これが私にはできない。朝、お母ちゃんに送ってもらって、夕方、お母ちゃんに迎えに来てもらう。こうなってしまったら、私は自転車に乗れないので、みんなと一緒に行動できないのがとっても悲しくて、どうしてこんな体に生まれたんだろうと思ってしまいました。いっそ死んでしまった方がいいのではないかと思い悩んでしまったんですね。
 そんなときに、音楽の先生が、御坊中学校に吹奏楽部を作るから、楽器が入る日にのぞきにおいでと言ってくれました。
 行きましたよ。「ヒュー」、フルート、いい音が鳴りました。でも、小指が届きませんでした。クラリネット、「フー」、親指が届きませんでした。トロンボーン、「プー」、一番向こうまで伸ばしたとき、ぱぱっと前に倒れました。「これあかんわ、できるわけないわ。」じゃあ、三本指のラッパだったらいけるぞ。「プップップー」、いけそうと思いましたが、肩がしんどくなって長い時間支えていることができませんでした。「あー、もうやれる楽器ないわ」と思って、やけっぱちになって、帰りがけにこういうもの(ドラムのスティックを見せる)を見つけて、バーンとやったら、これがドラムという楽器だったんです。これでパタパタパタってやったらスカッとするし、「柳岡、出来るやないか」と音楽の先生に言われて、「よっしゃ」っと思って吹奏楽部に入れてもらいました。
 そうしたら、放課後、お母ちゃんに迎えに来てもらう時間をちょっと遅らせるだけで、宿題をやろうと誘われても、「クラブの練習があるからごめんね」と自分から断れるようになったんですね。しかも、「死にたい、死にたい」と思っていたけれども、クラブ活動で新しいお友達ができて、練習が楽しくて、発表会を目標にしたりで楽しいことが見つかったので、すっかり死にたいと思っていたことも忘れてしまって。何か違うものに思いを変えるということはいいことですね。一つのことで死にたい死にたい、悔しい悔しい、辛い辛いばっかりだったら、そのまんま自殺してたかもしれません。でも、ちょっと違った意味で楽しいことが見つかったんですね。こういうことは非常にいいことですよね。ほかに思いを変えるって、これが思いやりというんですね。思いを他へやるんですね。
 はい。こういうふうにして中学校が終わって、次、どこへ行きますか?
○受講者 高校。
○柳岡 克子 そうです。高校受験です。やんちゃな連中のおかげでね、間違ったことを教えないようにと思って勉強したでしょ。おかげで高校入試に合格することができました。よかったです。そして、隣の日高高校に入学して、またドラムをやりたかったので吹奏楽部をのぞきました。ところが高校のドラムは、スネアドラムがここにあるんです。シンバルもチャチャチャと。ところが、大太鼓の足のペダルが、踏めなかったんですね。それでドラムはできないので、もう吹奏楽部に入ることができないのでがっかりしていたら、別の音楽の先生が、「高等学校には楽器がなくてもできる音楽部があるよ」と教えてくれました。それは何かというと、「あーえーいーおーうー」、歌を歌うクラブでした。合唱部、コーラスをしていたんですね。
 そういうことで、日高高校の合唱部に入りました。ところが、音楽室が四階でした。階段を上がるのが大変で、階段で引っ張り上げてくれた友達というのは本当に貴重な友達で、今も親友なんです。
高等学校の二年生になると修学旅行がありました。当時は信州に行きました。ある日、クラスのホームルーム委員さんが皆に、「今日は柳岡さんについての修学旅行の話し合いをするから、六限目が終わったら、ちょっと教室に集まってくれ」と言いました。私は信州のお土産を何にするか、野沢菜にするのか、信州そばにするのか、そのお土産を買ってくるのにいくらずつお小遣いを集めるのか、そういう話し合いをしてくれる会だと思って、私もいたんですね。そうしたら、クラスの皆がくじ引きで五つのグループに分かれました。一班、二班、三班、四班、五班ということで、そして、一班は初日、二班は二日目、三班は三日目、四班は四日目、五班は帰りと。「何かおかしいな、お土産の話と違うな」と思っていたら、またそのグループの中でじゃんけんして、車いすを押す係、荷物を持つ係、階段を引っ張り上げる係と、いろんな係を役割分担してくれました。
 どういうことかというと、このクラスの皆全員が平等に私をサポートして、修学旅行に一緒に行くための役割分担だったんですね。このクラスで本当によかったと思いました。皆と一緒に楽しい修学旅行に参加できたんですね。決してお土産の話ではなかったのです。当時は観光地といっても洋式トイレがどこにもここにもあるわけではなかったので、不自由なので母もついていきましたが、ほとんど母はカメラマンと看護婦さんと一緒に行動していました。私はクラスの皆と一緒に楽しい修学旅行に行くことができ、初めて信州の雪景色を見たんです。御坊はほとんど雪が降らないまちなので、ちらちら降っても朝起きた頃には溶けている状態の雪しか見たことなかったのが、修学旅行で一面が雪という景色を目の前で見た時は、みんなと一緒に修学旅行に行けてよかった、友達を大事にしよう、友達ってすばらしいなと感じたんです。
 そんなことがあり、進路を決めなくてはいけない二年生の終わりになりました。三年生になると理科系のクラスと文科系のクラスに分かれます。そのときに私は何になりたいかを考えなければいけなかったんです。私は理科が大好きでした。それで理科の先生になりたくて、理科の先生の免許の取れる大学を探していました。でもふと考えたときに、「オギャー」と生まれなかったばっかりにお医者さんとか看護婦さんとかリハビリの先生とかにお世話になって、今日ここまで生きてきたのであるから、医療分野で恩返しができたらいいなと考えたんです。そこで合格できたのが神戸学院大学薬学部というところでした。
 さて、神戸学院大学といいますと神戸市にあるんですけれども、御坊からは通えません。一人で神戸に住まなければいけません。大学にも一人で通わなければいけない。それには二つの大きなネックがありました。それは何かというと、自転車に乗れないことです。自転車に乗れないということは、単車にも乗れません。タクシーはお金がかかるし、バスは階段があります。どうしようと思ったときに、車の運転免許、取れますよと教えてくれました。手だけで運転する車の運転免許。ハンドルの右側にレバーが付いて、左側に押したらブレーキで、引っ張ったらアクセルという装置が付いています。この車の運転免許を取るのに自分で車を購入して、それを自動車学校に持っていって、そして専属の先生についてもらって免許を取りました。
 さて、もう一つ大きなネックがありました。二つ半でヨチヨチ歩けるようになりました。
(車いすから立ち上がる)
見えますか?この辺、見えない人は立ってください。ヨチヨチ歩けます。でも、ここまでしか腰が曲がりません。
(腰を曲げるが膝までしか手が届かない)
ここまで。何か困るんですね。質問はないですか?ここまでしか腰が曲がらなかったら困るんですよ。皆さんパンツをはいていますか?確認しませんから。ここまでしか腰が曲がらなかったら、パンツをはけないんですね。大学でひとり暮らしするのに困るじゃないですか。そこでね、またいいものを父が探してくれました。これ見えますか?
(リーチャーを見せる)
ここに落としますよ。
(ハンカチを落とし、リーチャーでつかんで拾う)
これ、いいですね。ヒャラリーン、いいでしょ。これ、折り畳みになっています。これをかばんに入れて持ち運びできます。こっちの折りたたみじゃない方は、部屋に置いています。ヒャラリーン、いいでしょ。はい。何か質問ないですか?これがあると何でもつかめるんです。何か質問ないですか?はい。
○受講者 それを落としたときはどうするんですか?
○柳岡 克子 そうなんですよ。小学校でよく「これを落としたらどうするの?おばちゃん」と言われるんですね。そしたらね、我が家にはこんなものがあるんですね。これ何ですか?これ、孫の手というんです。ヒャラリーン。
(リーチャーのひもに孫の手でひっかけて拾う)
(受講者の笑い声)
 いいですよね、これがあるとね。はい。
 何か質問ないですか?
○受講者 それを落としたらどうするの?
○柳岡 克子 そうなんですよ。これを落としたらこうするんです。
(孫の手の端を足で踏み、孫の手が浮き上がったのを拾う)
(受講者の笑い声)
 ヒャラリーン。はい、ここ拍手です。
(拍手)
○柳岡 克子 先ほど「何か質問ないですか?」と聞かせてもらったら、小学生なら「それを落としたときはどうするんですか?」という質問が出ると言いましたが、皆さんはそのように思いましたか?大人の方々の会では「それいくらするの?」「それどこで買ったん?」という質問になります。
(受講者の笑い声)
(テーブルの上の大きなみかんを床に落とす) 
こういうおいしいものが台所にあるのですけど見えますか?これ、このリーチャーではつかめないんです。困っちゃいました。我が家にはこんなものがあるんです。どこの家でもありますよね。
(傘を見せる)
 これいいんですよ、ヒャラリーン。
(傘を広げて、みかんをすくいあげる)
(受講者の笑い声)
(拍手)
 これなかなかいいですね、はい。
 先ほどから皆さん、はっはっはって笑うばっかりで、楽しんでいただいてますけど。今日は皆さんパンツをはいてるらしいんですけど、自分ではいた人?
(受講者の笑い声)
 ああ、ありがとうございます。「オギャー」と言って生まれたんですよね。では「オギャー」って生まれたときに自分ではきましたか?じゃあ、誰におむつかえてもらったんですか?
 小学校でこの話をしたら、学校の先生は親孝行しましょうとか、よく言うらしいです、授業で。でも、何で親孝行をしないといけないのかわからないままに親孝行しましょうなんて言われてもピンとこないんだそうです。でも、「オギャー」って生まれたときに、自分でおむつかえた人って聞いたときに、「あっ」と思うそうです。自分が今こうして生きていられるのは、生まれた赤ちゃんのときに誰かにおむつをかえてもらって、誰かにミルクを飲ませてもらって大きくなったんだな、ということを。小学校の講演に行かせてもらったら、感想文に「気がついた」って書いてくれます。「何で親孝行をしないといけないのかというのもわかった」という感想文をいただきます。これで納得した上で、親を大事にしなくちゃということがわかるんですね。そんな話を今あちこちでさせてもらっています。
 そういうことで、大学生活、階段もあり、大変な四年間でした。今、薬学部は六年かかります。その中であすか寮という二十人の寮に入りました。部屋は四畳半一間で、台所とお風呂は共同で使いました。お掃除当番というのがありました。お風呂のお掃除は、私は体が不自由でできません。ですから、十九人でローテーションを組んでくれました。でも、台所のお掃除は私も買い物に行って料理を作って部屋で食べるので、料理ができるということは掃除もできるわけで、二十人でローテーションを組んで、私も掃除当番は回ってくる。これはどういうことかというと、私は体が不自由だけれども、何もかもしてもらわなくてもできることもあるんだということです。ですから、できることは自分でやりましょうよ。できないところでサポートしてあげようという、周りに恵まれたわけなんです。ですから、教室で消しゴムを落としました。隣の人は拾ってくれます。「ありがとう」で終わりです。学校へはリーチャーを持っていきませんから。
 でも、お部屋でご飯食べているときにお箸を落としました。友達が横にいても拾ってくれません。それは部屋にこれがあるから自分で拾えることがわかっているからですね。
 皆さん方は、人権に関心をお持ちということは、きっと「体の不自由な人がいたら助けてあげましょう。親切にしなければいけません」などという話を聞いていると思います。それは、ちょっと考えましょう。何でもかんでも上から目線で、やってあげなくっちゃと思っているうちは福祉ではないです。人というのは、どんなに障害があっても人間としては平等なんです。人には上も下もないんです。対等な立場で、不自由なところだけサポートする。ですから、車いすの人がいたらいきなり押しに行ってはいけません。「お手伝いしましょうか?」って一声かけて、「大丈夫ですか?」とか、「一人で行けますか?」とか、ちょっと聞いてみてください。そして、「じゃあお願いします」とか、「ありがとう」とか言って初めて対等な関係になります。やってあげなくちゃ、してあげる、あげるって、上から目線ですよね。やってもらう人にとったらお節介になるかもしれないです。 ですから、本当のノーマライゼーションというのは、上から目線じゃなくて対等の立場という感じです。
 さあ、薬剤師の国家試験に合格して御坊に帰ってきて、ドラッグストアでお仕事をするようになりました。そのときに教員採用試験の受験資格も取っておりましたので、採用試験の勉強もしながら、夜、学習塾でアルバイトもしておりました。
 あるときにドラッグストアに地域の障害者団体の会長さんが来られて、去年、和歌山県が国体だったんですけれども、その国体の予選に御坊市のゼッケンをつけてスポーツ大会に出てくれないかと言われまして、私も水泳だったらできると偉そうに手を挙げてしまいました。御坊市のゼッケンをつけて、よーいドン、とスタートしたものの、腰から下が動かない人は、足をバタバタできないかわりに、上半身を使って、ものすごく速いのなんの。
反対に、この間パラリンピックに橋本市の中村君、七位でしたかね、両腕がない。そのかわり足のキック力がものすごいんです。平泳ぎでね。私、足も中途半端、手も中途半端、太っているからそれもある。でもね、これじゃ競技には勝てないと思いました。五年生の時、プールの端から端まで五十メートル泳いだのは競技ではなかったんです。泳げただけでほめてもらっていい気になっていたんですね。でも、競技となると、これはやっぱり腕や足がどちらか一方しかなくても、すごい早く前に進まなければならないものでした。それでもう私は、御坊市のゼッケンに申し訳ないから、「もうやーめた」と思って、お迎えの車を待っていたんです。そのとき、プールの横の体育館でこんなのをやってたんですね。
(ラケットを見せる)
 これ、何のラケットですか?
○受講者 卓球。
○柳岡 克子 ピンポーン。
(受講者の笑い声)
 そうなんですよ、これ。卓球。ピンポンとも言いますね。正解です。
 卓球をやっている障害者を見たときに、私より体が不自由そうだったにもかかわらず、ものすごい勢いでボールが飛び交ってたのを見て、「ありゃー、障害のある人が卓球やってる、しかも上手にやっている」と思ったときに、いや、もしかしたら私もできるかもしれないなんて、闘志がムラムラとわいてきたんです。そこで、「私も入れて」と言って、その障害者の卓球サークルに入れてもらいました。月に一回、御坊から一時間かけて練習に行っているうちに、障害者の友達ができたんです。うれしかったですね。私、実は、幼稚園から健常者の友達しかいなかったので、障害者がスポーツするのを初めて見たので、障害者の友達もいなかったんです。
 そんなことで、仲よくなった障害者の人の中には、ずーっと生まれたときから病気で、やっとスポーツと出会えたのが卓球だったとかいう人、健常者でバリバリ働いていたときに交通事故で腰から下が麻痺してしまったとかいう人と出会いました。びっくりしたのは、プロの卓球選手が、ゼッケンに会社の名前を貼りつけるだけで宣伝になるからという人もいました。
 名古屋の人ですが、夫婦で卓球選手で、車に自分たちが座る車いすと、スーツケースを乗せる車いすを四台積み込んで、旦那さんが運転する車で成田空港まで行って、そこから世界の大会に出場しているのです。二人がまっすぐ進んで来るのが格好良かったので私も真似しましたよ。一緒に世界大会に行くときに。ところが私がこぐと回っていきました。なぜ回るか。それは右手ばっかりでこいでいたからですね。手を左右途中でかえなければいけないことを忘れていました。こうして、ちょっと進んだらこう持ちかえて、こうこいだら真っすぐ行くのに、右手ばっかりこいでいるから、回っていったんですね。
 そんな感じで、エスカレーターでも車いすで乗る人とかいました。真似しようと思ったけどこれは危なかったんで、真似しませんでしたけど。
 まあ、ほんとにびっくりしたのは、卓球のしすぎで障害者になった人がいましたね。「そこまでするなよ」と思いましたが。
そんなことで、私もいろんな人に練習相手をしてもらいました。私が卓球の練習をしようと思ったら、このボール、これで拾えないんですね。ころころ、ころころしてね。
(リーチャーで卓球のボールをつかもうとする)
これ、なかなかつかみにくいんですね。
 そんなときに、私、これ大好物なんです。これ何ですか?
(ポテトチップスの空の筒を見せる)
(受講者の声)ポテトチップス
 ○柳岡 克子 ピンポーン。そうなんです。これ、ヒャラリーンって出てくるんです。
(ポテトチップスの空の筒でボールをかぶせると反対側からボールが出てくる)
 あら、やってみたいでしょ。今日は持ってきているんですよ。手にとってやってみてください。
 はい、お母ちゃん、配ってください。
(受講者にポテトチップスの空の筒が配られる)
(手にとって体験する。筒の簡単なからくりに感動する)
 じゃあ、行き渡ったようなので、次は、映像のほうを見ていただきたいと思います。NHK教育テレビの「きらっといきる」です。前の方をご覧ください。
(映像視聴)
○ナレーター 和歌山県御坊市、日高川が市内を流れる温暖な気候に恵まれた人口三万人のまちです。
 柳岡克子さんは、両親と弟の四人で暮らしています。朝九時三十分、会社へ出勤する時間です。柳岡さんは、自分で車を運転して会社に向かいます。
 柳岡さんの車は、ハンドルにレバーがついていて、片手で回せるように工夫してあります。
 柳岡さんは薬剤師、御坊市内の薬局に勤めています。薬の調合やお客さんからの健康相談に乗るのが主な仕事です。
○柳岡 克子 「いろいろありますけども、ステロイドの入ってない方がいいかなと思うんですけれども、これは非ステロイドですよ。こっちはちょっと入っています。入っていない方がいいですね。お大事に。」
○ナレーター ここは、柳岡さんが幼い頃から暮らしているまちです。顔なじみの人もよく訪ねてきます。自分の専門知識を活かしながら、そうした人たちの役に立てるのがやりがいにつながっていると言います。
○柳岡 克子 「病気でちょっと沈んだ患者さんとかが来られたときに、私が、こっちでどうですかとか言ったら、あ、何かよくなったとか、またみえられたときにすごくうれしいです。お仕事が楽しいし、ああ、薬剤師になってよかったと、いつもそのときは思いますね。」
(幼い頃の写真)
○柳岡 克子 かわいいやろ。自分で言うのも何ですが。
○ナレーター 手足の関節が動きにくいという障害があります。生まれてから何度も手術を繰り返しました。退院したのは二歳半の時でした。
 リハビリを続け、少し歩けるようになった柳岡さんは、地元の小学校に通い、障害のない子ども達と一緒に学校生活を送りました。
 高校三年の時、柳岡さんは幼いころから関わりの深かった医療に携わる仕事がしたいと、薬学部を選びました。
 そして十二年前、薬剤師になったのです。二十二歳の時でした。
 柳岡さんが薬剤師として働く場が五年前からもう一つ増えました。地域の休日急患診療所です。
二カ月に一度、日曜日にここで働いています。多い日には一日七十人もの患者が診察に訪れます。柳岡さんにはいつも自宅から持ってくるものがあります。この椅子です。
○柳岡 克子 「これに座ってしまったら大変。これに座ってしまったらもう、私は立ち上がるのに大変なのよ。どっか持たんとあかんし、大変なんですよ。時間もかかるし。これだったら手が付いているから、これを支えに、さっと立って、さっと座って行動ができるので。ちょっと座りたいときにでーんと座り込んだら、次の動作に移るのに二時間かかるから。やっぱり早く正確にするのが薬剤師のモットーだと思ってますので。」
「一日三回、食後すぐになってます。お大事に。」
○男性 「はい、どうもありがとう。」
○ナレーター 少しでも早く急病の患者に対応したい。柳岡さんの心構えです。
(音楽)
 夕方、薬局を出た柳岡さんには、もう一つ向かう所があります。日高高校の体育館です。
 柳岡さんはここで卓球の練習をしているのです。週に二回、卓球部の生徒と一緒に練習を始めて四年、今ではすっかりクラブの先輩です。
 柳岡さんは、足を開いて素早く動かすことができません。そのため、上半身を大きく動かして球をとらえます。また、膝が曲がりにくいので、落ちた球は相手の生徒が拾います。
 柳岡さんが卓球を始めたのは六年前。たまたま通りかかった体育館で卓球の練習を見たのがきっかけでした。自分と同じように障害のある人がいきいきとプレーをする姿にひかれた柳岡さんは、早速、そのグループに加わりました。障害者の卓球は障害の程度によって十一段階のクラス分けがされています。柳岡さんは両手両足が不自由な「クラス六」。そこで四年前に全国大会で初優勝、以来、三連覇を成し遂げました。
 三年前には、広島で開かれた全国身体障害者スポーツ大会で和歌山県代表として出場。そして去年、USオープン日本代表として出場、三位に入賞しました。柳岡さんは今や日本を代表するプレイヤーです。
 日高高校での練習を終えた後も柳岡さんの練習はさらに続きます。次の目標、来年のシドニーパラリンピックへの出場を目指して、河南中学校の古川先生のコーチを受けているのです。今、最大の課題は、スマッシュを確実に決めることです。
 柳岡さんは、毎回、練習日誌を書いています。細かい動きに至るまで反省点を書き出し、それに基づいて練習メニューを組むのです。
 パラリンピック出場の夢を現実のものにする、柳岡さんの練習は続きます。
○柳岡 克子 これ、三十分番組ですが時間の関係で映像の部分だけにさせていただきますね。 この後スタジオトークに入って、ジェフバーグランドさんや牧口一二さんと卓球したりするのですが、胸に会社のマークつけていましたが、映らないようにされました。さすがNHKですね。
 この十分の映像の撮影のために四日間、私に密着取材でカメラを回されました。ずっとはりつかれていたのですが、うちの母、今日来ているんですけど、八十歳です。「若い」と言ってあげてくださいよ。「お姉さんみたい」って。喜びますから。
 母もディレクターさんに、インタビューされたんです。「体の不自由なお子さんを産んで大変でしたね」って。うちの母は「いえいえ、私はこの子が歩けたことも喜び、学校に行けたことも喜び、働けるようになったことも喜びで、喜びをいっぱいもらいました」と。六十点ぐらいの普通のお子様に生まれていたら、四十点しか神様から喜びはもらえないけど、私は仮死状態の子どもだったので、ゼロ点からスタートしたので百点喜びをもらえたのです。たくさん喜びをもらえた分、私は幸せです。」と答えました。おまけに、「卓球の試合で世界にも一緒について行けて、ルンルン」って言ってしまいました。母はうれしくて、「インタビューされた、テレビに出るから見てね」と友達に触れ回って、オンエアではカット。
(受講者の笑い声)
 私はそのとき思いました。涙の一滴でも落として、「大変でした」とでも言っておけば、カットされることはなかったのにと。
 私もね、お料理をしてくださいと言われて、チキンライスを作ってあげました。スタッフの皆さん、カメラマンとディレクターと、それと音声さんと車の運転手と、四人分。心を込めて、タマネギのみじん切り。それが、実は自慢じゃないけど、上手。細かくてきれい。こぼすことなく鍋に入れて。そつなく炒めて、あまりにも上手過ぎたので、カット。
(受講者の笑い声)
 障害者らしく、こぼしたり、失敗するところを映したかったみたいです。後で思えば。上手すぎると絵にならなかったのです。
そういうエピソードがありながらも、練習は結構ハードだったんです。シドニーの大会の前ということで、もう大分昔の映像になってしまいましたが。
 やっぱり練習すると足が結構痛くなります。痛み止め、私、薬剤師なので、よくわかっていますから、お医者様にリクエストなんかして、よく効くのを出してもらって。胃を悪くしましたよ。飲み過ぎ。そこで座薬というのも、一番きついのを出してもらいましたよ。
 薬剤師として患者様には、「一日三回、八時間おきに使ってくださいね」って、ちゃんと服薬指導はできるんですよ、でも、自分は痛くて痛くて寝られないぐらい痛いときには、八時間おきで、二十四時間で一日三回よね。四時間おきと、六錠も突っ込んで腸を荒しましたよ。もうちょっとで死にかかるぐらい腸から出血して、トイレで倒れました。昼間だったので母がいて、なかなかトイレから出てこないので、のぞいたら倒れてたのです。意識不明でピーポーピーポーと、救急車で病院に行ったら、集中治療室、ICUでした。意識が戻っても点滴だけの生活になって、何にも食べられない。初めて出てきたしゃぶしゃぶのおかゆがおいしかった。口から食べられるということはありがたいなと、そのとき初めて思ったんですね。
 皆さん、今日お昼ご飯を食べましたか?口から食べましたか?ありがたいと思いましたか?「いただきます」と言いましたか?何で「いただきます」と手を合わすのですか?あれはね、お魚さんの命、鶏さんの命、豚さんの命、牛さんの命を私がいただいて、亡くなった命が私の体中に入るから、ごめんなさい、「まんまんちゃん、あん」と拝むんですよね。
 「ご馳走さま」と言いましたか?なぜ「ご馳走さま」と言うんですか?「ご馳走さま」の「馳」という漢字も「走」という漢字も「走る」という意味があります。これは、この食卓に出てくるまでの間に、今、稲刈りの時期ですけど、ご飯でしたら、田んぼから稲刈りして、そして米になって、スーパーに並んで、それをお母さんが炊いてくれて、そしてお茶碗によそってもらうまでいろんな人が走り回っているわけです。その走り回ってくれた人にありがとうの心を込めて「ご馳走さま」と言うわけなんです。この心を忘れないようにしましょう。食べ物を粗末にしてはいけないっていうことを言っても意味がわからないから、わからないままに「いただきます」「ごちそうさま」と言っているのです。
 そういうふうにして、私が口から初めて食べたおかゆさんがほんまにおいしくてありがたかったなと、点滴だけの生活をしたときに思ったんです。
 人が生きていくというのは、いろんな人にお世話になって、いろんなものに感謝しなければいけないなというふうに思うんですね。科学をずっと四年間、大学で勉強してきたけれども、ありんこ一匹、科学の力では合成することはできない。これができたらノーベル賞ですね。科学で、お砂糖から人はつくれないんです。ねえ、そういうふうに思ったら、命というのは、かけがえのないたった一つのもの。だから、感謝をする。そして、この空気にありがとうと言ってますか?空気は地球にしかない。この空気が十分間止まったら人類は亡くなってしまいます。でも、この空気に「ありがとう」を言う人はいません。蛇口をひねったら水が出る。スイッチを入れたら電気がつく。これはね、人類の知恵によって成しとげられた文明で、当たり前に思っているけれども、この当たり前の生活ができなくなったときに、ありがたみというのは感じられるんですね。
 なくなって初めてありがたいなと思うんだったら、あるときからありがたいなと思えばいい。病気になって初めて健康のありがたさを感じる。親が死んで初めて親のありがたさがわかる。よく言いますよね。
 でも今、私、講演であちこち、全国を回らせてもらっているんですけれども、「天の銀行」の話をよくさせてもらうんです。「天の銀行」というのは、(頭の横の方を指して)この辺目に見えない銀行の話です。
 皆さん方は、お仕事をしたら、お給料は目に見える銀行に振り込まれるのが普通ですね。でも、人の知らんところで人の役に立つようなことをしたら、残業をやってもお給料に結びつかんようなことをしたら、歯がゆいし腹が立つかもしれません。でもそれは、目に見えない天の銀行に貯金していると思ってください。私は「天の銀行」にたくさん貯金のある人というのは、きっといつか、その人の喜びとなって、引きおろせる時が来るのではないかと考えています。
 難しい言葉で言うと、お坊さんなんかは「天の銀行」のことを「徳を積む」という言い方をします。じゃあ、「徳を積む」と言ったら、大変な修行をしたり、滝に打たれたりしないといけないのかと。そういう苦行をいうのではないんです。普段の生活の中から、人に親切にするとか、困っている人がいたら助けてあげるとか、いつも笑顔で優しい言葉を使うとか、仕事や勉強に励むとか、自分がしてほしいと思うことがあれば人にしてあげて、人が嫌がることはしないとか。先生とか目上の人を尊ぶ心を持つとか、周りの人と仲よくする、そして家族は常に助け合うとか、良いところを見つけて悪口を言わないとか。時間とか約束を守って嘘はつかないとか。無駄遣いをしないで始末して、全ての物や人を大切にして感謝することを忘れない。そういう、幼稚園で習うような基本的な、人間として当たり前の生活習慣ができていないからもめ事が起こるんですね。一人一人がそれを心がけてできるようにすれば、平和な世の中が続いていくと思うんです。
 小学校でも講演させてもらっていますが、あんまり難しいことを言ったら小学生にはわからないので、「廊下にごみが落ちていたらどうしますか?」と聞いています。蹴飛ばす人?「ごみやごみや、ごみを入れるぞ」と言ってごみ箱へ入れる人?黙ってごみ箱に入れる人?さあ、この中で一番たくさん「天の銀行」に貯金ができる人はどの人だと思いますか?って聞きます。そうしたら、小学生でも三つ目の人って言います。ねえ、それはそうなんです。人が見ている、見ていないにかかわらず、自分が良いことだなと思ったら、勇気を出して人より先に、率先してやりましょう、こういう人がたくさん天の銀行に貯金ができるんですね。トイレットペーパーがなくなりかけていたときに、次に入ってくる人のことを思って取りかえて出てくる人。これは人が見ていないですね。でも、次の人のことを考えられる人というのはすばらしいですよね。
 私も、もう死にかかった状態で、出血多量で、これはどんな病気だろうとか思ったら、潰瘍性大腸炎という難病でした。大腸から出血する病気で、最後に倒れたときにドクターヘリで和歌山市内の病院に運ばれて、大腸を全部取ってしまうようなことになってしまって、人工肛門をつけてしまったんですけれども。「大腸取って大変でしたね」と皆に聞かれるんです。講演会では私は「大腸がないから大腸がんにならないんですよ」って言って笑っています。
(受講者の笑い声)
 ものは考えようですね。物事は、良い方に考えると良いのです。泣いても解決しないですから。
また卓球で試合もしたいけれども、ドーピングというのがあるじゃないですか。潰瘍性大腸炎の治療薬はドーピングにもひっかかるし、私、薬剤師で、スポーツファーマシストといってドーピング防止担当の薬剤師をやっています。事前の申請をしないで選手としてひっかかったら、マスコミのネタになりますよ。
 せっかく助かった命ですから、多くの人のお役に立ちたいと思いました。それで御坊市身体障害者福祉協会の会長という役をいただきました。あの頃は三十代後半でした。御坊市では初めての女の、しかも三十代ですよ。張り切りました。でもいろんな人が、「あんな女にできるのか」とかね、「あんな若造にできるのか」とかいろいろ言われましたけど、頑張りましたよ。みんなに楽しんでいただく企画も考えました。今までやったことのないイベントも考えました。カラオケ大会をしました。みんなに喜んでもらえると思いました。
 そしたらクレームが来ましたよ。「私たちは、音楽が鳴っても聞こえない。歌いたくても歌えない」って。そうなんです。今日、早口にもかかわらず、一生懸命、私の言葉を手話通訳してくださってます。本当にありがたいですね。でもね、私の身体の障害者の会というのには、聴覚の障害者も、視覚の障害者も、車いすの障害者も、義足の方も、松葉杖の方も、いろんな障害の方がいらっしゃるんです。知的障害の方と精神障害の方はいらっしゃらないというだけの会なんですけれども。そうしたらやっぱり、私は今こうやって皆さんの前でおしゃべりができること、そして、音楽が聞けること、これはありがたいことだと思いました。
 なかなか、聴覚に障害をお持ちの方の気持ちがわからなかったし、相手の立場に立ってと、人には簡単に言っても、自分は手や足が不自由で一番不幸な人間ではないかというふうに思ったこともあり、もっと大変な方もいらっしゃる。でもそれを乗り越えて頑張っていらっしゃるということに気づかなければいけなかったけれども、会長としては失格だったんですね。それで、聴覚の方はまた別のイベントを考えるということにしました。
 そして次に、また皆で手品のマジックショーをしました。これなら、聴覚の障害の方にも楽しんでもらえると思いました。
 クレームが来ました。「私たちはスペードがハートに変わっても見えない。ハンカチがくくりつけられていてもわからない、おもしろくない」と言われました。視覚障害者でした。私はこうやって目が見える。皆さんが見れる。これをありがたいと今まで思ったことはなかったけれども、こういうふうに考えてみると、目が見えるということはありがたいことなんだ。情報のほとんどが視覚からくる、そう思った時、ああ、私はそういう目の不自由な人のことをあまり今まで理解しようとしていなかったんだなと反省をしました。そう思った時に、今、自分が一番不幸なんかじゃない、もっと苦しんでいる人がいる、その人たちにも楽しんでもらえる会にしなければいけないなと思って、いろいろ悪戦苦闘です。いろんな失敗とかも繰り返しました。
 宴会をしました。ビールをつがせてもらいに行きました。「会長です、よろしく、よろしく」って。そうしたら、透析をしている方がいらっしゃる。水分に制限があるので半分にしてくれと言われました。水をたくさん飲んだら透析に影響があるそうです。腎臓の病気の方です。
 旅行に行くことを企画しました。車いすの方はだっこしなければならない。私、人をだっこなんかできないです。自分もこんな体ですし。リフトつきのバスを探してくれと言われて、その時は和歌山県には一台しかなかったんです。抽選で負けました。翌年になりましたね。
 運動会を企画しました。心臓にペースメーカーを入れている方は、ドキドキしたら命にかかわるからといって、走ってもらえませんでした。
 ビデオの上映会をしました。そうしたら、聴覚障害の方には、今日の「きらっといきる」も申し訳なかったんですけど、字幕スーパーがないですね。字幕スーパーのある日本の映画はほとんどないです。これ、和歌山の方では字幕を入れてくれる団体がボランティアであるんですけど、頼みに行ったら三カ月待ちということで、非常に難しかったです。
 そんなことで、相手の立場に立って考えることが、いかに難しいかということを学んだわけなんです。
 坊さんのお話で、長いお箸があるとしましょう。ここにご馳走があって、このご馳走を長いお箸で食べようと思ったら、地獄の人は口に持っていくことができないのでもめるんです。でも極楽の人は、この長いお箸で自分の口には入らなくても向かいの人の口に食べさせてあげることができるので、相手が喜ぶんですね。相手の喜ぶことをすると、「ありがとう」と言って、また、向かいの人の口に食べさせていく。そうしたら、巡り巡って、自分が食べられるんですね。人のために良いことをしているうちに、世の中というのは循環している。巡り巡ってまた自分の喜びとなって返ってくるというお話を、お坊さんの講演会で聞きました。
 まあ、今、人の良いところを見ようとかという話をさせてもらっているんですけれども、今日は皆さん方にも実践をやってもらいたいと思います。
 今から二十秒間計りたいと思います。二人組になってもらいたいので、ちょっとお隣の方と手をつないでもらえますか。 相手のいない方がいましたら、誰か手話の方かスタッフの方が入りますので。 はい、相手のいない人いませんか?
 ルールを説明させてもらいます。恋人同士ではないので、いつまでも手をつないでいなくても。
(受講者の笑い声)
 二人組になってもらいたいので手をつないでもらっただけで、今からフォークダンスを踊るわけではないですよ。
 今から、右側の方、手を挙げてください。はい、こっち側の方。
 今、手を挙げて方が、手を挙げてない方の良いところをほめてください。数えながらほめてください。いいですか。二十秒計って、二十秒たったら「ピピピー」って鳴ります。そうしたら、チェンジです。左側の方が右側の方の良いところを数えながらほめてください。
 優勝者には、今日、後ろのほうで障害者施設のグッズの展示販売コーナーを設けさせてもらいました。これ、カエルマグネットということで、障害者施設の人が一生懸命作ってくれた作品です。「挨拶あいうえお」というメッセージが入っています。「挨拶」の「あ」は明るく、「い」はいつでも、「さ」は先に、「つ」は続ける。あいうえおの「あ」はありがとう、「い」はいただきます、「う」はうれしい、「え」は笑顔、「お」はおかげさまというメッセージが入っているカエルマグネット、冷蔵庫とかへ貼っておくやつで、磁石なんですけど、これを優勝の方にプレゼントさせていただきます。
 後ろでは三百円で販売させてもらっています。ぜひ、お帰りの際はご購入をお願いしたいんです。これ、そっちは知的や精神障害者の障害者団体の方たちがつくったものなんですけど、一ヶ月働いても八千円から一万円ぐらいの工賃にしかならないんですよ。あまりにも安いのですが、障害の人というのは最低賃金法という法律がかからないんですね。これじゃあまりにも厳しいので、売り上げが上がれば工賃は上がるので売り上げに協力しましょうということで、講演の会場の後ろで並べさせてもらっています。
 私が入院中に、一生懸命作った傘のキーホルダーなんか、私、大腸を取って以来入院することがなくなったので、最後の在庫を持ってきました。もう七年前に大腸を取るまでは半年に一回、大腸から出血して、大変でした、安倍総理も一回目の総理大臣のときは、総理大臣を辞めるほど出血して倒れたんですよね。私も何回も倒れて、その度に「総理大臣と同じ病気です」って自慢していたんです。総理大臣はお薬で治っちゃったんです。私は大腸を取ってしまったんですけれども。入院して退屈だったときに作った最後の作品もあります。いろいろ並べさせていただいてますので、後でご協力いただけるとありがたいです。
 早くしろということなんで、せっかく二人組になったのに。
 じゃあいきますね。二十秒計りたいと思います。もうルール忘れたんちがいますか。
 二十秒で「ピピピー」って鳴るので、よーい、スタート。
(受講者が隣の人の良いところをほめている)
 「ピピピー」はい、時間です。
 では、隣の方、行きます。よーい、スタート。
(受講者が隣の人の良いところをほめている)
 「ピピピー」はい、時間です。
 では、聞いていきたいと思います。お隣の人の良いところ、一つしか言えなかった人?手を挙げてください。
 はい、二つ言えた人?三つ言えた人?四つ言えた人?五つ言えた人?六つ言えた人?おっ。七つ言えた人?おっ。七つ言えた人いますか?七つ。八つ。あっ。
(拍手)
 九つ。あ、九ついました。
(拍手)
 十。十以上。じゃあ、九つ。
(拍手)
 おめでとうございます。どうぞ前のほうにお越しください。贈呈させていただきます。おめでとうございます。皆さん、拍手。
(拍手)
 はい、ありがとうございました。
 そういうことで、いろいろ皆さん方も、それなりにいろいろ悩みもおありかと思います。もっと美人に生まれたかった。もっと頭がよければよかった。もっとお金持ちに生まれたらよかった。もっとスポーツができたらよかったとかね。欲を言えばきりがないです。みんな無いものねだりなんですね。でもまあ、親が病気とか、商売がうまくいかないとか、子どもがいうことを聞かないとか、家計が苦しいとかね。それは、どういうふうに乗り越えていくかというのは、気持ちの問題ですよね。相手が悪いと思っているうちは解決は遠いです。でも、それは自分の運命なんだと受け入れて、そして、それを良い方向に物事を受け入れていく。そういう心でいてほしいですね。よく老人クラブとかでもお話させてもらうんですけれども、皆さん方で戦争を体験されたという方、もう皆さんは戦後の方が多いですけれども、そういう戦争体験とか、苦しいときの体験って、なかなか孫やひ孫に言いにくい、でも、実際の言葉で伝えられるのは皆さん方なんだよって。直接伝えられる今の時期に子ども達にしんどいことを伝えてほしいというふうな話をさせてもらっています。
 そういうことで、今日は枚方市に初めて来させてもらったのですが、本当に反応がよくて、とっても和やかで楽しいお話ができました。もし、今日家に帰って、柳岡さんの話ってどうだったのって聞かれたら、また本にもなるそうですけれども、今すぐ聞きたいという人は、「柳岡克子」と漢字を打ち込んでいただきまして、検索ボタンを押していただくと、スマートフォンとかパソコンでユーチューブというのを貼ってあります。十分間の短縮バージョンですけど、今日の講演会、一時間半が十分間になって貼りついていて、ご覧いただけますので、また家に帰って、誰かに宣伝するときは、これ見てねと言うだけで結構です。ご覧いただけたら幸いでございます。
 今日は本当にお忙しい中、足元も悪い中、お越しいただきまして、ご清聴ありがとうございました。
(拍手)
○司会 柳岡先生、大変すばらしいお話をありがとうございました。
 そうしましたら、感想であったり、ご質問のある方、挙手を願えますでしょうか?
○男性 柳岡先生のお話、愉快に聞かせていただきました。ちょっと、障害者がパラリンピックで、障害を乗り越えたことで、スポーツですぐれた人が、健常な人から感動したという言葉を寄せられたら、それに抵抗を感じるという、それがちょっと、僕はよくわからないんですけれども。柳岡先生は、障害者にとって、「感動した」とか、障害を乗り越えてすばらしい競技をしたことに対して、健常者に「感動した」という言葉を言われたら、受け取った人は、人に感動を与えたことに抵抗を感じると言われるんですけれども。
○柳岡 克子 ものすごい抵抗ありますよ。
○男性 あ、そうですか。
○柳岡 克子 障害なんか乗り越えるものとは違いますよ。障害者が皆と同じように、普通に生活できて当たり前の社会を作っていかなければなりません。
 この間、「バリバラ」といって、「きらっといきる」の後番組で、裏番組が二十四時間テレビだったじゃないですか。二十四時間テレビって、感動を起こさせるための仕掛けなんですよ。あれを仕掛けて感動させて寄附をもらうという番組なんですね。
パラリンピックというのは、障害がある人は、健常者のオリンピックと同じように、ものすごく練習をしている、私たちは目の前で見ているから、乗り越えるもんじゃない。戦いなんですから。
 だから、「感動しました」と言われると、ものすごく見下されたみたいに思います。戦いに対しても、正々堂々とやっているのに。パラリンピックは大会。国体はリハビリ。ですから、リハビリの域を超えない国体というのは、日本だけのレクリェーション。だから、世界に出ていけないでしょ。国体で優勝したからっていって、パラリンピックにつながる大会ではない。パラリンピックというのは、アジア大会があり、世界に飛び出していくにあたっては、ものすごいランキングポイントをとって、戦って戦って、やっとパラリンピックなんで、乗り越えるなんて、そういう甘い世界じゃないです。スポーツの世界なんで健常者と同じです。たまたま手がない、足がないというだけなんで、手がないなら手がない同士で戦わないとフェアじゃないというだけのこと。目が不自由な人が眼鏡をかけるのと同じで、眼鏡をかけている人が、「あなたかわいそうですね」って言われて良い気しないでしょう。補聴器付けている方に、「あなた耳が不自由でお気の毒ですね」って、言われたら良い気しないでしょう。「補聴器で乗り越えているんですね」って言いますか。補聴器を付けていることが障害を乗り越えているんだって言われたら、良い気しないでしょう。そういう意味なんです。
 感動というのは、自分より低い位置の人を見つけ出して、自分はまだましだというふうに思う、そういう意識レベルがまだ日本にははびこっているんで、障害者は生きていきにくいです。普通に障害がある人が生きていける社会というのは、そういうものじゃなくて、車いすであっても普通にうろうろしても誰からも振り向かれることのない社会が心のバリアフリー、壁のない社会、ノーマライゼーションというんです。そういうふうに私は考えます。
○男性 ありがとうございます。
○柳岡 克子 こちらの方、手が挙がってましたので。
○女性 本日はいいお話、ありがとうございました。
 私は、第一回枚方女性フォーラムなどいろいろな女性問題にかかわっています。まあ、今日のお話は、努力の賜物です。感動しました。
○柳岡 克子 ありがとうございます。
○女性 これからも強く生きていってほしいと思います。ありがとうございました。
○柳岡 克子 女性問題を頑張っておられるということで、私も御坊市の男女共同参画を推進する団体の会長を十一年、務めさせてもらいました。女性活躍推進法というのが今年の四月からできまして、女性も男性と同じように働けるというような法律がどんどんできてきました。
 これからは女性も専業主婦とかではなくて、社会に出てどんどん活躍できるような時代が、今まで以上になるかと思います。その分、責任も出てきますが。薬剤師は女性が多いんですね。私はあまり女性が働く意識なかったんですけど、薬学部へ行ったら、女性が非常に多かったし、就職率も男性と変わりませんでした。
○司会 そのほか、何かございますでしょうか?
○柳岡 克子 感想でもいいです。遠慮なくどうぞ。
○女性 本当に元気なお話を聞かせていただいて、すごく楽しくておもしろくて、元気をいただきました。また明日から頑張って、前向きに生きていこうと思います。ありがとうございました。
○柳岡 克子 ほかにないですか。あちこちで子育てのお話もさせてもらっているんですけれども、昼間、ドラッグストアで働きながら、先生になりたかったという夢を捨て切れず、夜は学習塾を経営しました。やんちゃなお子さんとかを相手に、塾を三十年やってきたということで、子どもの育て方とか、子どもの叱り方、サンドイッチ方式で叱ればいいんだよといったお話をさせてもらっているんです。せっかくの機会なんで言わせてもらえます。子どもっていうのは、叱ると怒るは違うんですよ。怒るというのは感情に任せて怒る。叱るというのは愛情を込めてということ。
 私は、一番叱りたいことを真ん中にはさんで、まずほめて、そして叱って、最後にほめる。塾にやんちゃな女の子が化粧をしてきました。化粧は学校で禁止されています。いきなり「化粧はあかんやろ」って言ったら、学校の先生とか親と一緒になります。私は、「何々ちゃんきれいやね」って、一回先にほめて、そして、「学校では禁止されているやろ、あかんやろ」って叱りました。そして最後に、「でも、何々ちゃんは素肌がきれいやから、すっぴんのほうがべっぴんさんやで」と言いました。そしたら、女の子はそっちの方がうれしいからって、それからは化粧をしてこなくなりましたね。やっぱり、いきなり怒ったらだめ。ちょっとほめる。聞く耳持った頃に叱る。そして最後にもう一回フォローしてあげる。これ、中においしいハムを包み込むみたいにね、サンドイッチ方式で子どもは叱るのです
 あと、お父さんを大切にしましょうと。「あんなお父さんになるな」みたいな叱り方をしたら、お父さんは良い気がしません。でも、「お父さんみたいに立派になれ」って言ったら、横で聞いていたお父さんは、よく働きますし、聞いていた子どもも親には負けたくないと思って、頑張って勉強するようになります。こういうふうに、いろいろ子育ての話も取り入れさせてもらって、保護者会なんかでお話させてもらったりしております。
 そういうことで、今日はお話を一生懸命聞いていただきました。楽しんでいただけたら私はよかったです。どうもありがとうございました。
(拍手)
○司会 柳岡先生、ありがとうございました。
 そうしましたら、本日の講座「生きること」はこれにて終了させていただきたいと思います。
 お手元にアンケートがございますので、よろしければご記入いただきますよう、よろしくお願いいたします。アンケートの方はこちらの入り口のところで回収しておりますので、よろしくお願いいたします。
 本日は参加していただきまして、本当にありがとうございました。