生きている喜び
講演内容全文(近畿肢体不自由児父母の会、H24.7.14 和歌山市民会館)90分
 ヒャラリーン、皆さんこんにちは。スクリーンに私映っているでしょうか。こんなにアップで映ると恥ずかしいのですけれども。あー、映りました。ありがとうございます。
今日は、近畿肢体不自由児者福祉大会にお招きいただき、ありがとうございます。近畿各府県から大勢の方に和歌山県にお越しいただきました。ちょっと九州の方で雨が降っているということで大変心配しておりますけれども、かろうじていいお天気になりまして良かったです。
 私は、この和歌山市から1時間ほど南の方にあります御坊市という所で産まれたんですけれども、オギャーッと言わなかったそうです。皆様方も、もしかしたらお子様がお産まれになったときに大変心配な状況だった方もいらっしゃるかもしれませんが、私も仮死状態で産まれたそうでございます。もう歳のことはあまり言いたくないのですけれども、もうすぐロンドンでオリンピックが開催されるということですが、私は東京オリンピックの年に産まれました。御坊で産まれたのですけれども、手足があちこち障害があるということで、この県庁所在地の和歌山市の大きい病院にすぐに運ばれましていろんな検査をしまして手術とかリハビリとかマッサージとかいろんなことをしてもらいました。今日、父も母もついて来てくれているのですけれども、やはり私のことを大変心配してくれたと思います。大体普通のお子様でしたら1歳ぐらいで、よちよち歩けるそうですけれども、私はその頃は手術の真っ最中で、この子将来どうなるんだろうと不安を抱えたままの入院生活だったと聞いております。もうお医者様には「一生寝たきりであと数年の命かもしれない。覚悟をするように」とお医者さんに言われたこともあるそうです。幸いにして2歳半で少しではありますがよちよち歩けるようになったということで、御坊に帰ってきました。
 母は高校卒業以来勤めていたバス会社の事務員を私の入院生活に付き添うために退職しました。私は退院しましたけれども面倒見るということで会社に復帰もできずにずっと私に付いてくれたわけです。しばらく家にいて、地元の幼稚園に行くということになりました。お寺さんが経営している近くの健常児の幼稚園ですけれども、母が送って迎えに来てくれました。そこでお友達というのが初めてできました。弟がまだ生まれていなかったので一人っ子として育ってきましたので、自分の中でわがままも芽生えますが、集団生活というのを初めて経験しますと、絵本を見るにしても同じ絵本を同時に見たいというお友達ができたときに、譲り合うということがなかなか経験したことがなかったんですね。「蝶よ花よ」で障害があるからといって家族や親戚に大事にしてもらって育ってきたものですからね。そんな時に幼稚園でみんなはジャンケンということを教えてくれたんですね。皆さんはジャンケンできますか?今日は父母の会ということで年配の方もいらっしゃいますしね、今日大きなスクリーンをせっかく用意してくださったんで、私のこの手が見えるでしょうか、一度ちょっと手を上げてください。私とジャンケンしましょう。はい、上に出して、いいですか、最初はグーでいきますね。皆一緒にやりましょうよ、今日、参加型の講演会ということで楽しくいきたいですね。私は大学の先生のようにむずかしいお話はできません。堅苦しいお話をしますと皆さん、今お昼ごはんを食べて一番眠たい時間だと思うんですね。ですから今日はせっかく和歌山へ来たけど寝ようとか思って、くつろいで来られている方もいるかも知れないのですけれども、ちょっと参加型で寝かしませんよー、とか言いながら楽しく行きましょう。さあージャンケンいきます。最初はグー、ジャンケンほい。はい、皆さん勝った人おろしてみてください。これに対して勝った人ですよ。じゃあ、もう1回いきますよー、最初はグー、ジャンケンほい。この手に対して勝った人おろしてください。いいですかー、皆さん、いまパーを出しておろした人、はい、ありがとうございます。ブブブブブーです。パーをだして自分は勝ったと思った方は負けでーす。ハハハハハーって笑ってください。なぜ笑うかというと、この手をグーだと思ったわけですね。写してくださいよー、カメラさーん写してくださいよー。これはグーではないんです。チョキなんです、チョキ。で、これがグーでこれがチョキでこれがパーです。ハハハハハーって笑ってください。そうです、映ってますかー、カメラさん。このチョキわかりますか、これがグーです、これがチョキです、これがパーです。わかんないっていうのが大体の正解肢です。いいですかー、はい、じゃあちょっと考えてみてください皆さん。ハハハハハーって笑ったんですけれども、これが幼稚園の時だったんですね。わたしは自分の体がみんなとちょっとだけ違うとことがあると、感じたんですね。小さいながらもみんなのように走りができない、こけたら1人で起きることができない。そしてジャンケンでちゃんとこの親指が広がらないんですね、この人差し指も中指も薬指も小指も曲がっているのですね。こんな手っていうのがみんなと違うということですね。それでいつもジャンケンをすると、わたしはチョキだと言ってもみんなにグーだと言われてパーをだされるんです。これ悲しいですよ、皆さん自分のことだと思って考えてください。私パーだした人って言って、皆さん勝った気持ちになっていたでしょう。最初は皆そうなんです。わたしがこんな手だってことをわかんないときは。で、もし幼稚園のクラスにそういうお友達がいたらどうしますか、皆さんどうしますか、いじめますか、毎回、克子ちゃんはグーしかだせへんっていって勝ちますか。さあー、そんなときにとってもやさしいお友達に恵まれたんですねー。ちっちゃいメモ帳に、今日はちょっと拡大版作ってきました。見えますかー。「克子ちゃんはこのちっちゃい紙切れをせーのーで出せばいいんだよ」って言われました。そしたらチョキを指でできなくても、これをだせばチョキになるだろうと。こういうふうに考えてくれるお友達がいたので、ジャンケンができるようになった。こういうお友達がいてくれたおかげで、とっても仲良く遊ぶことができ、私の体はみんなとちょっと違うけどそういうことを克服することを覚えたのですね。
 さて幼稚園を卒園できました。小学校、これがまた大きなネックだったのです。小学校へ入る前に就学時前検査というのがありまして、今頃ありますね、秋にもありますねー、来年入学する人の検査がありますね。で、そのときに体の不自由なお子さんは養護学校といって、今は支援学校というところがあるので、そこは全寮制で和歌山市というここの県庁所在地にあるところに入ってくださいと言われました。私は御坊市ですから、1人で家を離れてそういう寮に入れられちゃうのかなー、ちょっと悲しいなーとか思いながら話をずっと聞いて父も母も「どうして御坊小学校の普通の学校に入れないのですか?」ということをいろいろ相談したみたいです。そしたら「一人でおしっこができない子どもさんは集団生活に馴染めない」と言われました。それで、今ではどこの老人ホームにでも置いてあると思いますが、ポータブルトイレというのを父が探しだして買って来てくれました。そして御坊小学校の女子のトイレの1つのお部屋の壁に手すりをコンコンコンと打ち付けてポータブルトイレを置かせてもらうということで、教育委員会とか校長先生を説得して御坊小学校に入学させてもらうことができました。母は朝学校へ私を送り届けるために当時の女性ではめずらしいですけども車の運転免許を母が取ってくれたのです。もう今は後期高齢者です、今日も来ております、表のフロアーのほうでグッズの協力を求めております。「とても若い、お姉さんかと思った」と言ってあげてください、喜びますから。今は後期高齢者になった母ではございますけれども若かりし頃まだ運転免許なんかまだ誰も取っていない頃に私を学校へ送りたいという心でもって、免許を取りに習いに行ってくれたんです。
 そして御坊小学校へ無事入学することができました。担任の先生は入学式の後「このクラスには体の不自由なお友達がいますが、決していじめたり泣かしたり突き飛ばしたりしてはいけませんよ」と言ってくれました。おかげでとっても小学校へ行くのが楽しくて幼稚園の時にジャンケンのちっちゃいメモを考えてくれたお友達とも同じクラスになることができまして学校が好きでした。朝お母ちゃんに送ってもらうのがとってもうれしかったです。ところが、学校に行きたくない日がありました。それはどういう日だと思いますか?きっと皆さんだとわかってくれると思うのですけれども時間割に体育の授業があった日です。この日私はさぼりたかったです。学校に行きたくなかったのです。でも朝お母ちゃんに引っ張りあげられ学校へ連れて行かれてしまいます。行きたくないと言っても熱があっても連れて行かれました。そういうことで学校に行ったら体育の授業の日はいつも見学でした。よりによって風邪ひきの子の横に座らされるのです。私は風邪ひいていないのに。その子らは風邪ひきで体育の授業を休むのは年に1、2回ですよ。私は毎回ですからね。見学ノートを書けなんて言ったらそれはもう毎回ですからルールなんか全部覚えちゃって毎回「○○ちゃんがんばっていた」等々書くのでもう飽きてしまいましたよ。だから体育の授業嫌になっていたのですけども、ある夏の体育の授業の前に「次回はプールだから柳岡さんも一緒に授業受けなさい」と言われました。エーって感じですね。私は家族でプールや海水浴に行くことはあっても、浮き輪を使って泳ぎます。学校の授業では浮き輪を使うことができません。恥ずかしいですね、浮き輪使うの。「使えないのなら私泳げないからイヤーっ!」て言ったのです。でもその先生は、7.18水害と言いまして、もう60年近く前になりますが日高川が氾濫して、昨年9月の紀伊半島大水害の洪水のような感じで大勢の御坊市の方が亡くなったのですが、その時に屋根とか丸太棒につかまって生き延びた方が先生の一人だったのですね。泳げないことが原因で命を落とすようなことがあってはいけないから、とにかく泳げるようにしてあげたいという願いを込めてその先生は私にプールで泳げるようにしてあげたいと思ってくれたのです。「お母ちゃんもつかってくださいよ、先生の目が行き届かないときもありますから」って言われまして、あのお母ちゃん、プールに入りましたよ、若かりし頃ですよ。で、服に着替えるとか不自由なところを助けてもらってプールの授業を受けました。顔をつけたり、足をバタバタしたり、手のこぎ方など、一から十まで教えてもらって、ある日、プールの端から端まで50メートルあります。こんなの泳げるかなと思ったのですけど、最初は10メートル泳げた、ヤッター、25メートル泳げた、ヤッター、そして50メートルの端から端までを全部浮き輪もなしに泳ぎ切ることができました。その時にクラスのお友達とか、先生方がみんな拍手してくれたのです。私はうれしかったです。「こんな身体でも、がんばったらできることがある。」そういうふうに思って「がんばろう、これからもがんばろう」っていう気持ちになったんです。
 そして御坊小学校から御坊中学校に移ります。義務教育ですからそのまんま行くのですが、御坊小学校の先生は丁寧に御坊中学校の先生に引き継いでくれました。それで、「身体の不自由な女の子が中学生になりますよ、なにとぞよろしく」と言ってくれていたのです。そしたら御坊中学校の先生は、張り切っちゃいましてね。私の方はポータブルトイレをもって、お父ちゃんが手すりを取り付けに行くだけだったのですけど、御坊中の先生は何かあったらいけないということで、何かある度に「柳岡さん大丈夫か、階段大丈夫か、いけるか、気付けて」と気にかけてくださいます。でもね、私もええ加減「うっとうしいなあ」という年頃だったのです。今でこそ、そういうふうに親切にされると「ありがたいなあ」っていう気持ちになるのですけど、中学生ですからね。思春期という時期は、やはり、あまりやさしくされるのは特にうっとうしいなと思う年頃ですよね。特にこの御坊中学校っていうのは、母校の話はあまり悪く言いたくはないのですけれども、やんちゃな子が多かったんですね、当時の不良という連中が。そのやんちゃな連中がね、「柳岡、おまえちょっと来い」と言われました。私はもう怖くって怖くって、いじめられるのじゃないか、今テレビでも、大津の子どもさんがどういういじめを受けてきたかということが、どんどんあからさまに出てくるにつれて、自分もそういうようなことがあったら嫌やなあって、想像しただけでぞっとするようなことをされるんじゃないかと思っていたんです。そしたら「あんたね、ちょっと足不自由やと思って、ええ気になってない?」と言われ「いえ、ええ気になんかなっていませんよ」と。「なめてんのとちがうか」「いやあ、なめてなんかいませんよ(なめたくもない)」「なめんなよ、先生に可愛がられているのとちがうか、ちょっと先生にひいきされてるんちがうか」って言われました。私は先生にひいきしてくれなんて言うた覚えはない。たまたま小学校の先生から丁寧な引き継ぎがあったらしいということは知っていたけども、こっちからお願いした訳じゃないのです。でも、そのやんちゃな連中にとったら私ばかりが先生に可愛がられている、むかつくというふうに受け止められちゃった訳なのですね。それで、私もそろそろいじめられるのではないかとびくびくしていたのですけども、今とは違います。当時の不良っていうのは「不良の美学」というのがありました。わかりますか?柔道やら剣道やら空手など強そうな連中を相手に戦って勝てば格好良かったのですね。でも私のように、ちょっと突いただけで、こけそうなひょろひょろした者に戦い挑んで勝ってもあんまり格好良くないのです。不良としては。柳岡に勝ったぞって自慢できるものじゃないでしょう。当たり前、誰でもいけるって感じでね。だからやんちゃな連中は私に指一本触れず暴力的ないじめをすることはなかったのです。口では言いますけどね。幸い、女の子だったから良かったのかなあ、男の子だったら大津の男の子みたいにいろんなことされたかもしれないですね。ある時、やんちゃな連中に呼びつけられました。「柳岡、ちょっと来い。」って言われたのです。「うわぁ、また怖いよう」と思いながら。試験前だったのです。「試験どこ出るのか?」っていきなり言われて。これはちょっと外せないなと思いまして、試験に出そうなところを教えてくれって言うのですね。まあ、やんちゃな連中もテストではいい点取りたいと。でも授業をまじめに受けてないから大事なところがわからない。そういう感じだったので、「ここのリアス式海岸という言葉、これは岩手県のギザギザの海岸のことで三陸と和歌山県がポイントやから和歌山も入ってるし、出そうかなぁ」と言ってしまったのです。それが出たのです。やんちゃな連中にとったら私を敵にするよりもちょっと今回から試験のただで使える家庭教師ぐらいに思って、こき使ってやろうっていう感じで、それからというもの試験前になったら「どこ出る?どこ出る?これどんなにするの?」っていっぱい不良に取り囲まれるようになりましてね。それを見た先生が職員室から走ってきてね、「何してるの、柳岡さん大丈夫か?」って言うので、「勉強してるで〜」って言うと、先生もびっくりして「そうか、そうか、良かった。」っと。そんな関係やったのです。私の中ではその時、ウヒヒっていう感じ。かけっこも、とび箱もできない何にもできないこんな身体やからみんなに負けることばっかりでした。でも勉強だけはもしかしたらがんばったらあの連中より勝てるかもしれないってその時思ったのです。いつか見返してやろうっていう心をちょっと持ってしまったのです。それで勉強しました。いっぱい勉強しました。試験前にどこ出るのって聞かれて、外れたらほんまに怒られちゃいますからね、ちゃんとここ出るよって教えられるように勉強しました。
 ところが、思春期っていう時期はね、人から何かされて辛いだけで済めばいいのですけど、違うんですね。皆さん方のお子さんも、もしかしたらもう思春期卒業されているかもしれませんけれども、やはりそういう年頃のお子さんっていうのは私が経験した中では一番難しい、心が微妙に揺れるのです。一番悲しかったことがあります。それは仲良かった友達です。その友達に悪気はないのです。柳岡さんも友達だからこそ仲良くしたいっていう気持ちを込めて「今日は○○ちゃんとこで一緒に宿題をしようよ」という話がでたんです。それで5〜6人の友達で宿題やろうと、ほとんどお菓子食べながらしゃべる宿題パーティーですけれども、「放課後4時に○○ちゃんとこへ集合」って言いまして。その時です、みんな自転車で、学校から帰ってカバンおいて宿題だけ持って自転車でその子の家に遊びに行くという話になったときです。私も行きたいなあって思っていたけど、私はお母ちゃんに車で送ってもらって授業が終わったらお母ちゃんに迎えに来てもらいますから寄り道ができなかったんですね。しかも自転車に乗れない、これがとっても悲しくて、クラスの全員ができることなのにもかかわらず、私一人だけができないことがあると深刻に受け止めてしまったのです。幼稚園の時ジャンケンできないっていう頃は、手の代わりにグー、チョキ、パーのメモを出す方法を考えてくれた子もいました。別にそんなに手が不自由でも一生懸命練習して鉛筆で字書けるようにもなりましたし、お箸でご飯食べられるようにもこの手で訓練しました。だからまあまあ生活に支障はなかった。でも自転車に乗れないということは思春期の私にとったら大きなことで大事件なのです。今考えたらその程度のことで何悩んでいるのって思えるのですけど、あの当時の私は悲しくて辛くて「なんでこんな身体なんだ」と考えた時に、「もういっそ死んでしまったほうがいいのではないか。」そういうふうに考えてしまったのですね。ですから大津の男の子が大変傷つくことをされて死んでしまいたいなあって気持ちもわからないでもないのです。でもその時に、ふと周りの人が何らかのかたちで別の意味で楽しいことを与えてあげるとか気持ちを切り替えられることがあれば、死ななくて済んだのじゃないかなあっていうふうに思ってとても残念です。私の場合は音楽の先生が「御坊中学校に吹奏楽部を作るから楽器が入る日にのぞきにおいで。」と言ってくれました。それで見に行きました。フルートっていう横笛がありました。この楽器は親指が届かなかったのです。それであきらめました。それでクラリネットという縦笛がありまして、いい音が鳴るんですが今度は右手の小指が届かなかったんですね。「あかんなぁ、できる楽器ないなぁ。」笛がだめならラッパはどうかということで、トロンボーンです。トロンボーンをプーって伸ばしたときに、前に倒れてしまいました。「これもあかんわっ」と思って3本の指でいけるトランペットがありまして、これいいじゃないかって思いまして、手にとって1分ほど支えていたらズズズズズーっと手が疲れてきて脇を支える力が弱いのです。「あかんわぁ、できる楽器ないわぁ」って音楽室を後にして帰ろうと思った時にこれを見つけたのです。(ドラムのスティックを見せる)これは何かと言いますとドラムやったのです。このドラムと出会ったおかげで吹奏楽部に入れてもらうことになりました。吹奏楽部で新しいお友達ができたので夕方吹奏楽部のクラブが終わる頃にお母ちゃんに迎えに来てもらうということで「放課後一緒に宿題しよう」と言ってくるお友達がいたら「クラブ活動の練習あるから私いいわ」と自分で断れる強い私になっていたのです。自転車に乗れないことなどすっかり忘れて18歳になったら車の運転免許とれるよってことを教えてくれる大人も横にいたんですね。「あっそうか、車は自転車より速いから乗れるのだったら18歳まで待とう!」ってそういう気持ちに切り替えることができたのです。思いを切り替えるとか、別の目標ができるとか、そういうことがあれば「死にたい」と思っていても、がんばろうって気持ちに変えることができるのですね。
 さて御坊中学校を卒業して高校へ行くという話になった時に御坊中学校のすぐ隣が日高高校ですね、でもここには高校入試というのがあります。やんちゃな連中のおかげで勉強だけはがんばっていたんですね、ですから日高高校に無事に合格することができました。日高高校に入ってもドラムをやりたかったので、吹奏楽部をのぞきました。そしたらここにシンバルが4つ程付いている、ここにドラムが4つ程付いている、足に大太鼓が2つ付いていたのです。この足が踏めなかったのです。それで残念でしたが吹奏楽部に入れませんでした。そんな時、もう1人の音楽の先生が「楽器がなくてもできる音楽部があるよ」って言ってくれました。それが合唱部でした。「アエイオウー」きれいな歌声が音楽室から聞こえてきました。さあ練習です。音楽室に行こうと思いました。4階に音楽室があって、階段を上がるのが大変で、友達に引っ張ってもらいながら上がるのに本当に苦労をしました。いまOBとして音楽室をのぞきに行ったらエレベーターが付いていたのですよ。なんとむかつく。「私の頃に付けてほしかったなあ」っと思いながらも、「柳岡さんのおかげで障害のある子も高校に入学することになりましてね、その子が合唱部に入ることになったのでエレベーターを付けました。」あらまあって感じですよね。「柳岡さんの頃から運動していてやっと今ですよ。」きっかけのひとつにはなったんかなあっとは思いながらも20年近くかかってやっと付いたエレベーターですよ。OBとして行きやすくはなったんですけれども鍵がないとエレベーター動かなく、普段は使えないそうです。日曜日の練習に行って動かなかったので若いころと違ってへとへとになりながら階段上がりました。まあそんなエレベーターですけれども今付いています。階段を上がるのがしんどかったことしか合唱部の想い出ないのです。あとここの市民会館のステージで発表会があって、このステージに立つのは20数年ぶりです。今日はうれしいですね。昔の合唱部の発表会ここだったのですよ。アエイオウーって歌いました。
 日高高校も2年生になりますと修学旅行というのがあります。ある日クラスのホームルーム委員さんが「今日の放課後はクラブに行く前にお掃除が終わったらちょっとみんな集合してくれ。柳岡さんについての修学旅行の話し合いをするからちょっと残るように」と。私はきっと長野の信州というところに修学旅行に行くことになっていたので、信州そばなのか野沢菜なのかお土産を何にしようか、いくらずつお土産代を集めたらいいのかとう話し合いをしてくれる会だと思っていたんですね。「1班、2班、3班、4班、5班に分かれたかっ」ていう話になりまして、私はお土産の話と違うなと思っていたら、「1班は初日、2班は2日目、3班は3日目、4班は4日目、5班は帰り」って言われまして「なんかお土産の話と違うなあ」と思っていたら、このクラス45人の人数を5つのグループ9人ずつに分かれまして私を修学旅行に連れて行くに当たってみんなが一人ひとりが平等に車いすを押す係、荷物を持つ係、階段を引っ張り上げる係というふうに分担して手分けして係を決めてサポートしようというそういう話し合いをする会だったんです。私はてっきりお留守番だと思っていたので、とてもうれしかったです。御坊という土地はあまり雪が降らないので一面の銀世界っていうのを見たことがありませんでした。それで長野の信州の5月ですけども雪が残っているところを初めて見た時本当に感激しました。「このクラスで良かった、こういうみんなに支えられてこのクラスの友達がいたおかげで私は今高校生活をがんばれるんだ。」友達のありがたさっていうものをつくづく感じたんですね。
 さて高校3年生になりますと進路を決めなくっちゃいけない大事な時期になります。私は理科と数学が好きでした。理科の先生になりたいなあって、先生の免許のとれる大学ばっかり探していたのです。けれども、ふと思い直したときに、おぎゃーっと言わなかったけど、この世に生を受けた時からお医者さんに手術してもらい看護婦さんのお世話になりいろんな医療関係の人に助けていただいたこの命ですから、何かそういった医療関係でお役に立てたらいいなあって思って勉強をしていたんです。そしたら薬学部という学部があるということを知りました。それで神戸学院大学の薬学部に合格して行くことになりまして、御坊を離れて生活することになりました。御坊からは通えませんからね。そうなると2つの大きなネックがあったんです。家を離れて生活をするとういことで寮に入るのですけれども、先ず大学と寮の距離は600メートルありました。この600メートルを歩いて通うのはとてもしんどいです。自転車に乗れません、もちろん単車も乗れません。バスは階段があるしタクシーで毎日通うお金ももったいないし、何かいい方法がないかなあと思っていたら車の運転免許というのを思い出したんですね。18歳になったら取れるからと言われて自転車に乗れないということを忘れることができたきっかけは車でした。「足が不自由な者に車の免許なんか取れるのかなぁ」っとまず警察へ行きました。視力検査も腕の力もOKでした。そこで腕だけで運転できる車を購入して自動車学校へ持ち込んで車の運転免許を取ることができたのです。
 2つの大きなネックがあると言いましたけれども、ちゃんとスクリーンに私が映っているでしょうか、先ほどから2歳半でよちよち歩けるようになったということでちょっとだけ歩いて見せますけども、皆さん今日ご本人さんが障害のある方はちょっと少ないかもしれないですけれども、私この状態で神戸で一人暮らしをしなくっちゃいけなくなりました。ここまでしか腰が曲がらないんです。何か困ることあると思いませんか?一人暮らしをするに当たって、ここまでしか腰が曲がらないんですね、そうです、パンツがはけないのです。「皆さん今日パンツはいていますか?はいている人は手を挙げてください。はいている人多いですね。全員はいていますか?じゃあ1人ではきましたか?自分ではきましたか?自分ではいた人は手を挙げてください。はい、ありがとうございます。」今日会場と一体になっていてうれしいですね。じゃあ私ここまでしか腰が曲がらないからパンツがはけないということで今とてもいい物があるのですね。ここに物を落としますね、そしたらこういう物があるのですね。(リーチャーを見せる)リーチャーという物ですけど、いいですね。これがあると何でも拾えるというということで、折りたたみ式というのもできているのですよ。(折りたたみを見せる)これいいですよ。かばんに入れてどこにでも持って行けるということで。まあこのリーチャーがあると何でも拾えると言いました。「何か質問ないですか?」後で質問コーナーあるそうですけれども、今聞いといてくださってもいいですよ、小学校でよく講演させてもらうんですけれども、このリーチャーがあると何でも拾えるだと言いましたが、小学生は鋭いですよ、「そのリーチャーを落としたらどうするの?」って聞かれます。これ落としたらね。(孫の手を見せる)この孫の手でこういうふうに拾うことができるんですよ。そしたら小学生はすごいですよ。「孫の手落としたらどうするの?」って聞くのですけど、見てくださいよ、カメラさんいいですか、1回ですよ1回、この孫の手落としたら孫の手の曲がっている指の部分を踏んで、てこの原理で孫の手を起き上がらせて拾うんです。というふうにね、不自由な部分もあるけれどもちょっと工夫していろいろ考えて、パンツも1人ではけるようになって神戸学院大学の薬学部へ当時4年間ですけれども行かせてもらったのです。
 あすか寮という寮は20人で生活をする寮だったのです。四畳半の個室です。台所で自分の買ってきた材料でお料理をして部屋に持っていって食べる、お風呂は共同ですね。そういう生活でしたからお掃除当番というのが回って来るのです。共同の廊下とかお風呂掃除とか。でもお風呂掃除は私にはできません。ですから19人でローテーションを組んでもらって私はしなくていいというふうに組んでもらいました。でも台所のお掃除は私もできるからということで、20人でローテーションを組んでくれました。皆さん方はそれぞれ身体の不自由な方々と家族として生活をされていると思いますけど、何でもかんでもお父さんお母さんにやってもらうというような生活をしていたら甘えてしまいます。私は親元を離れてそういうふうにできることとできないことをしっかり見極めのできる友達に恵まれたおかげで「柳岡さんは社会に出ても何でもかんでもやってもらうのじゃないよ」っていうことを教えられた訳ですね。おかげで教室で消しゴム落とした時、隣の人はすぐ拾ってくれます。部屋で鉛筆落としました。たまたま部屋に友達が来ていても拾ってくれません。なぜなら私の部屋にこのリーチャーがあることを知っているからです。「自分で拾え」ということですね。そういうふうなことで車いすの方見つけたら自分の子どもさんと同じように押してあげようかと思うでしょ。よその講演とかでしたら「不自由な人を助けよう」って言っている講師も多いです。でもね、やっぱりその人が本当に困っているのか困っていないのか見極めたところで「大丈夫ですか?」「お手伝いしましょうか?」「1人で行けますか?」って一声かけてコミュニケーションをして、「じゃあ、お願いします」って言ってもらって初めて力を貸してあげるというのが本来の福祉、ノーマライゼーションじゃないかなって思うのですね。私でしたらこういうところのフロアーは自分で車いすこげます。でもちょっとスロープがきついと後ろ押してもらわないとしんどいです。ですからその人の障害によって助けてあげるレベルも違うのです。だから一律にスロープを作れば福祉なんだと。もう議員さんいませんか?議員さんも来られていたら聞いてほしかったのですが帰られましたね。スロープさえつけりゃ福祉だと思っている市役所、どことは言いませんが、でもこんな急なスロープをつけている市役所の入り口があるのですね、「車いすに乗って自分でこのスロープこいで上がってみてください。」と議員さんにも言ってみたいですけど。そういうことでなかなか健常者の目から福祉を見るということは、本当に障害のある人の気持ちに立った福祉施策というのができない。ですから私今障害者団体の会長をさせてもらっていろんな会議に行った時に「わからなかったらこの車いすに乗って」と言って私が車いすから降りて、車いすに座ってもらって「どうぞこのスロープ上がってください。」って言うのです。そして、「考えてください。あなたが障害者だったら困ることがあると自分で感じたところに予算を付けてください。」というふうな頼み方をしているんですけれども、なかなか行政は厳しいですし、財政難ですからね。
 まあ、そんなことで神戸学院大学という親から離れての4年間を皆の支えで厳しい中にもがんばらせてもらって薬剤師の国家試験もおかげさまで合格しまして御坊に帰ってくることができました。でもやはり学校の先生になりたいという夢を捨て切れていなかったので教員採用試験の勉強もしておりました。教員採用試験が7月ですから塾でアルバイトをしながら、勉強をしていました。塾でアルバイトをしていたときに生徒が付きました。「柳岡先生の家で教えてほしい」と言われました。それで、うちで勉強見させてもらうようになったら、口コミで友達を紹介してくれてどんどんうちの生徒が増えてきたんです。それで、ちょっと学校の先生よりも塾の方が楽しいなっていうことと、学校の先生になって遠足の引率と言われたときに先生の方が生徒に世話にならなくっちゃいけないというのも困りもんですし、家庭訪問で4階にアパートがあったら、私、生徒の親に「家庭訪問に来たんですけど階段引っ張ってもらえませんか」とかいう家庭訪問できないですね。しかも修学旅行の引率はできません。それで、公的な学校の先生になるのをあきらめまして、塾の先生をすることにしました。そんな時、ハローワークから「御坊に初めてのドラッグストアができるから薬剤師を募集しているけども、柳岡さん薬学部卒業しているけども国家試験落ちたのですか。」って言われました。「受かっていますよぉ」って言ったけども実は卒業以来、塾で働いていたので、薬剤師の免許を使っていませんでした。それで、「午前中、生徒来ないでしょ、学校に生徒が行っている時間帯だけでいいのでちょっと薬局の薬の管理をしてもらえませんか?」と言われましてドラッグストアに就職をしました。
 そこで、お仕事をしていたときに障害者団体の会長さんが私の家に来られまして「柳岡さん、今度和歌山県で障害者のスポーツ大会をするので、選手が年寄りばっかりなので、若い人を育てたいのであんたちょっと出てくれへんかい。」と言われました。「ああ、じゃあ水泳で出ます。」って即答しちゃったんです。25メートル自由形。「なあーんだ、私50メートル泳げるのよ」とかいう感じだったのです。それで出ました。泳ぎました。前に進みません。そのとき思いました、太っているからなのかとも思ったのですが、初めて水泳というのは速さを競うスポーツだったのだと。忘れていました。50メートルを端から端まで泳いだときにみんなに拍手してもらっていい気になっていたけれども、大勢で並んで「よーい、ドン」だったら厳しかったのですね、実は。手の無い人、和歌山県も今度パラリンピックに出場する中村智太郎君がんばっていますよねえ。メダルですよ、きっと、前回もメダルですからね。足だけでバタバタバタと、速いですよ。じゃあ今度、足が不自由な人。これがまた上半身鍛え上げられていますから、ものすごい勢いでこぎますね。私は中途半端。手も不自由でこの穴から水漏れるし、こいでもこいでもここにひれ付いてたらよくこげるけど私の手なら水が抜けるでしょ。足は足であんまりバタバタできないでしょ。前に進まないのです。おまけに太っていて。それで、負けました。来年、御坊市のゼッケン付けて大会に出ても御坊市に迷惑をかけるし恥をかかすことになるから「もう出ませーん」って言うて帰ろうと思いました。帰りがけに車を待っていた時に体育館で何やら他のスポーツやっているのでのぞきました。そしたらこれやっていたのです。(ラケットを見せる)これ何ですか、ピンポーン、そうピンポンなんです。卓球とも言います。障害のある人が卓球をしていたのです。ものすごく不自由そうな人が。私もラケット持たせてもらいましたよ。サーブがピューンっと飛んできてかすりもしない、早いボールがシュッ、シュッて。その時思い出しました、私も障害者だったのですね。健常児の学校へ行って健常者と一緒にいますと、自分に障害があることを忘れていたんですね。でもね、その方脳性麻痺でものすごく不自由そうな方だったのです。でもものすごく速いボールでサーブしたりラリーしたりしているのを横で見ていて、すごいと思って感動したのです。こんなに障害の重い方がこんなにがんばっているのであれば、私は彼よりもうちょっと元気な分練習をすれば勝てるかもしれないと思ったのです。それで障害者の卓球サークルに入れてもらいました。いっぱい練習しました。そしたら和歌山県の大会で優勝して近畿大会でも勝てて、そして全国大会にも行けるようになりました。それで世界大会に行くための全日本の選手に選ばれて合宿をしたのです。そしたらすごい人がいたのです。夫婦共車いすで、名古屋から成田まで運転して来て、だんな様の手で運転する車に奥さんを乗せて4台の車いすを車に積み込んでいました。自分たちが乗る車いすが2台でしょ、あとの2台は何を乗せるかというとスーツケースを乗せる車いすだったんです。それで飛行場に着いたらすぐスイスイと移動します。飛行場、広いでしょ、前の車いすにスーツケースを顔が隠れるぐらい乗せて、自分は後ろの車いすに乗って前の車いすを持ってこぐんですね。真似しましたよ、私も。左へ曲がっていきましたね、当たり前です。右手ばっかりこいでいたからです。その夫婦は二人とも左右の手を変えていましたね。だからまっすぐ進んでいたのですね。そんなすごい夫婦、シドニーのパラリンピックでだんな様はコーチで奥さんは銀メダルでした。すごかったのは、ゼッケンに着物屋さんの宣伝を書けば広告になるからと、プロの卓球選手が障害者で初めて出てきましたね。笑ってしまったのは、卓球のしすぎで障害者になった人がいましたよ「そこまでするな!」って言いたくなったくらい笑っちゃいました。中学校のとき全国大会、高校のときインターハイで大人になったら国体に出て、ものすごく強い卓球のおばちゃんが、やりすぎで膝壊してしまったそうです。障害者になってもまたいい成績を残しています。徳島のおばちゃんでしたよ。でも卓球の練習、私を相手にするのは大変ですよ。何が大変かと言うと、このボールを落としたら、私に打ってきたボールを当てて返ればその人の近くにボールが飛びますけど、私がこのボール逃しますね。そしたら打った人がこのボールを拾いに行かなければなりません。笑いごとじゃないですよ、私と卓球の相手をして練習教えてくれる先生っていうのは。できれば狭い部屋で、私が壁一杯に下がって練習したら、打ったボール私が逃しても壁に当たってまた戻ってくる。そういうふうに練習していたのですけど、あまりにも気の毒やなあと思いまして、考えたのがこれですよ、カメラさん映してくださいね、これ何ですか、ポテトチップス、私の大好物なのですけど、こうボール落としますよ、そうするとこのポテトチップスの筒でボールをキャッチしてヒャラリーンってこうボールが出てくる訳なんです。やってみたい方いらっしゃるみたいなので、今日はスタッフの者がそこらへんに持ってきておりますので、ボールこれ転がさないでくださいね。ちょっと見て後ろへ回していってくださいね。お母ちゃんが配ってくれるみたいなので、あっちの方からお母ちゃん、こっちのほうから社協の担当者来てくれていますけど、はいボール1個と筒1個とね、やってみてくださいね。今日決してポテトチップ屋さんから何かもらっているわけではございませんので。じゃあ、体験が進んでいる間にスクリーンの方で私の卓球をやっている映像のほうを少しだけ流さしてもらいますので、映像担当の方スクリーンの方に映し出してもらえますか。あのう会場ちょっと暗くなるかもしれませんが、早めに後ろへ回してくださいね。はい、じゃあスタートをお願いします。

   (スクリーンにてNHK教育テレビ「きらっといきる」VTR(10分)を上映)

 はい、ありがとうございました。このあと、また私映してもらえますか。切り替えていただきまして、これは30分の番組だったのでスタジオトークとかもあるのですけども、今日は時間の関係で映像の部分だけ10分間見ていただいたんですけど、この10分の撮影に4日かかったんですよ。でね、うちのお母ちゃんもインタビューされちゃって、「身体の不自由なお子さんをお産みになって大変でしたね」って聞かれたのですよ。それで、うちの母は何て答えたかというと「仮死状態で産まれたから産まれたときからゼロだ。ゼロからスタートしたから100点分喜びをもらった。60点で産まれていたら40点分しか喜びをもらえないから私の方が幸せ。歩けるようになったことも喜び、学校に行けたのも喜び、働けるようになったのも喜び、卓球で私も世界に連れて行ってもらってルンルン」って言ってしまったんですよ、これがNHKとしてはブー、カットですよ。NHKとして、「悲しくて、辛くって」と涙の一つも流してほしかったみたいですよ。だから不採用。「行ってらっしゃい」の最初ちょっと見送りのシーンだけになっちゃって。今日来ていますからね。でもこれシドニーの前の映像なのでちょっと若かりし頃の思い出話になってしまいました。
 先程、卓球のしすぎで障害者になった話を笑ってしまいましたけれども、私もこの卓球を一生懸命練習したので練習が厳しくて足が痛くなりました。人のこと笑えませんね。薬を飲みました。痛み止め。薬剤師ですから、いい薬知っているからお医者さんに「○○出して」って一番きつい薬を頼んで、「これ、ちょっときついよ」っと言われながらも、飲みました。胃を悪くしました。あんまりいい薬剤師じゃないですね。患者様には「あんまり飲まないように、胃を悪くしますよ。」とか言っているのですけど、自分は飲んでしまいました。それで座薬といっても座って飲む薬じゃないですよ、お尻に入れる薬なんですが、「お尻に入れるのを8時間おきに1日に3回にしてくださいよ」って患者様には言っているのですが、私は痛くって5時間おきに入れました。腸が悲鳴をあげました。もうちょっとで死んでしまうところでした。大腸から出血して、トイレで倒れていたのです。発見が早く助かったものの大腸傷だらけです。病気にもなりました。当時の総理大臣と一緒と喜んでいましたが、潰瘍性大腸炎っていう病気にもなり何度も出血して救急車でICUに運ばれました。一ヶ月間何も食べることができなくって、点滴だけの生活が続きました。初めて出てきた食事がスプーンですくっても、米粒が3粒か4粒しか入ってないぐらいの目玉粥でした。それを口から食べたときのおいしかったこと。今までこんなおいしいもの食べたことのない。今はダメですよ、お肉のほうが好きですからね。「皆さん方今日お昼ご飯食べましたか?口から食べた人。はい、ありがとうございます。」でも病気になったり病院にいると、胃ろうで胃に穴を開けていたり口から物が食べられない方も一杯いたのです。私も何も食べられなかった時、口から食べられるということはありがたいなって思いました。今までご飯やおかずにたいして「いただきます」といったけどこの意味すら知らなかった。鳥さんあなたの命をいただきます、牛さん豚さんあなたの命をいただきます。ごめんね、まんまんちゃんって手を合わせて拝む。これが「いただきます」っていうことなのです。そういうふうに思わせてもらったらご飯が食卓に並ぶまでにいろんな人が走り回ってスーパーの人、農家の人、いろんな人が走り回ったおかげでここの食卓にのぼるということは走り回ってくれた人にありがとうっていう意味を込めて「ごちそうさま」といいます。この「そう」っていう字は「走る」って書くのですね。そういうふうな気持ちで食べ物をいただかしてもらっている。ありがたいじゃないですか。そう思ったときにどれほど科学が発達しても、やはり草木一本科学の力では作ることはできないのです。人が生きていくには空気や水やいろんなもののお世話になって私たちは生かされているのだということに気が付かなければいけない。人っていうのは一人では決して生きていくことができないのです。だからこそ皆様のおかげという気持ちを忘れないで感謝の気持ちを持って生きていく。水道ひねったら水が出るのが当たり前、電気のスイッチを押したら電気がつくのが当たり前に思っていたけれども今回の東日本の地震とかで電気が止まった、水が止まった、その時初めて「ありがとう」っていう気持ちが起こったと思うのですね。不自由になって初めて感謝の気持ちを持つ、親がいてありがたいなあというのは親がいなくなった時に気づくのですね、そして病気をして初めて健康のありがたさに感謝するのです。そしたら自分の命を大切にしなくっちゃいけない、自分の命を大切にできる人っていうのは、他人の命も大切にできるということなのですね。
 私は今こうやって講演活動であちこち行かせてもらっていますけれども、この辺に目に見えない「天の銀行」があると仮定しましょう。10万円働いて10万円の給料が入るのは目に見える銀行。でも12万円分働いたにもかかわらず10万しか給料が入らなかったら2万円分損をしたような気になっていると思うのです。でもその2万円分っというのは目に見えないこの「天の銀行」に貯金されるというふうに思いましょうということです。「天の銀行」にたくさん貯金のある人は、きっといつか喜びとなっておろせる日がくるのではないかというふうに感じているわけなのですね。それを仏教の言葉で「徳を積む」というそうです。「徳を積む」て言うたら難しいことをするのじゃないかと思いますけれども、そんな難しいことを言っているのではないのです。人に親切にするとか、困っている人がいたら助けるとか、いつも笑顔でやさしい言葉を使うとか、仕事や勉強に努め自分がしてほしいと思うことを人にさせてもらう。先生や目上の人を尊ぶ、周りの人と仲良くして家族も仲良くすると、人の良いところを見つけて悪口を言わない、時間や約束を守って嘘をつかない、無駄遣いをしないようにしよう、今節電節電と言っていますけれども電気がないから節電するのではないのです。この世にある全てのものに感謝をする気持ちを込めて節電をするということなのですね。例えばトイレットペーパーがこれぐらいだったとします。トイレは個室です。誰もいない部屋なのですね。でもこれを使い切ってしまった後、後から入ってくる人が困らないようにと思って取り替えて出てくる。こういう思いやりなのですね。人が見ている、見ていないにかかわらずいいことだと思ったら率先してできる。こういう人が天の銀行に貯金ができるという人です。
 私は先程障害者団体の会長をさせてもらっていると言いましたけれども、「30代後半で女のくせに」とか言われました。「若いのに偉そうに」と言われたのですけれども、でも張り切ってがんばりました。ちょっとでも助かった命です。もうICUで死ぬかもしれへん、出血多量で死ぬかもしれへん命を助けてもらったのです。そんな時に与えられたお役ですからがんばろうと思いました。それでカラオケ大会を企画しました、みんなに喜んでもらいたい一心だったのですね。でも「私たちは音楽が鳴っても聞こえない、歌いたくても歌えない」って聴覚障害者からクレームが来ました。それで困りました。マジックの手品のショーをやってもらおうと思ってマジックができる方に来てもらいました。そしたら「私たちはハートがスペードに変わっても見えない」って言われて視覚障害者からクレームが来ました。難しいです。障害によって不自由なところが違うからです。でもそういった団体の役をさせてもらっております。宴会をしたらビールを2杯も3杯もつがせてくれなかった透析をしている患者さんもいらっしゃいました。旅行に行くと言ったらリフト付きのバスを押さえたり、手話通訳を探したりに苦労しました。映画の鑑賞会をすると言ったら字幕スーパーのあるのを探すのが大変でした。運動会をしたらペースメーカーの人は走ってくれませんでした。そういういろんな体験をしながらも一生懸命大勢の人の役に立ちたいと思ってがんばらせてもらっております。
 先ほど皆さん方に「パンツはいていますか?」って聞かせてもらいました。ハハハって笑っていましたよね、「自分ではきましたか?」って聞いたらもっと笑っていましたね。でも身体が不自由だったら自分ではくのが辛いと思います。今小学校とかでよく講演させてもらっている時に、「パンツを自分ではきますか?」って聞いたら、子どもら「あたり前よ、自分ではける」って大きな声で言います。「でもじゃあみんなはもう小学校になって大きくなったけれども、おぎゃあって産まれたとき自分でオムツを替えたのですか?」って聞きました。そしたら「産まれたときなんか何にもできへん」って言う子がいました。その通りですね、産まれたときお父さんお母さんは喜んだと思います。そしてお金をもらうわけでもないのに汚いウンコを拭いてくれたのです。それが無償の親の愛情っていうものなのです。「皆さん方は小学生になって産んでくれって言うた覚えはないって親に反抗していませんか?」って聞かしてもらいました。そしたらウンウンって感じで笑っていました。「でもそのお父さんお母さんのおかげで今皆さんが小学生として勉強を習いに学校に来られるのですよ」って言わせてもらったら、わかってくれたみたいです。オムツは自分で替えられないってことに気づいたときに親に対する感謝の気持ちを持つことができたのですね。皆さん方は今日父母の会ということで本当にお子さんが誕生されたときはうれしかった反面、これからの将来のことを考えたときに一緒になってこのしんどいことを乗り越えていこうって心新たにされたことと思います。それを一緒になって乗り越えて来て、そしたらみんなお父さんお母さんにありがとうっていう気持ちを持っていると思います。私も今日は来ている親にありがとうなんて言ったことはないです。ですからこんなところで言うのも恥ずかしいし照れくさいです。でも心の中ではこの親があってこそ私がこうやってがんばれたってことはわかっているのですね。きっとお子さん方このお父さんお母さんの気持ちを忘れていないと思います。
 私はまだ独身で子どもはいませんが、同窓会に行ったらやっぱり子どもがいて子どもの話とか聞きます。「柳岡さんは子どもがいないのであちこち講演とか行ってうらやましいな、自由な時間があってうらやましいな」とか言われます。でも私にとったら子どもがいる友達がとってもうらやましいです。じゃあ子どもがいるのが幸せなのか、だんな様がいるのが幸せなのか、いないのが幸せか、そう思ったときに皆さん方もいろいろ考えると思います。もっとお金持ちだったら良かったのに、もっと美人に生まれたかった、もっとスポーツができたら良かった、もっと男前だったら良かったとか、もっとスマートだったら良かったとか。でもじゃあ金持ちは幸せですか、金があっても遺産相続でもめている家もあるじゃないですか。そう思わしてもうたらその人の幸せっていうのはその人の心の中で決められるものじゃないでしょうか。思いようによっては幸せにもなるし不幸にもなれるわけなのですね。「嫌や嫌や、不幸や不幸や」って言って悩んでいたらその悩みは解決しますか?悩んだり泣いたりしても解決しない時は、私は泣かないことにしました。皆さん方それぞれ今自分の心の中に辛いこといっぱい抱えていると思います。でもその辛いこと悲しいことをどういうふうに明るく受け止められるかということでその人に幸せが近づいてくるか幸せが遠ざかって行くかの基準になるのですね。
 何でも明るい気持ちでいけたらいいなということで、ちょっとお時間も少なくなってきましたが、今からお隣の人とちょっと手をつないでみてください。2人組になっていただきたいのです。はい、いいですか、奇数になって相手のいない方は前後でも結構です。先ず2人組になってください。はい、いいですか、ちょっと相手の目をしっかり見てください。相手の目を見つめてくださいよ。お隣の方とね、はい、いいですか、今から30秒間測りますから相手の方のいいところを数えながら言ってください。後で交替をします。交替をしますから自分が相手のことをいくつほめることができたかというのを数えてくださいよ、いいですか、ご褒美がありますからね、がんばって相手のいいとこ見つけてくださいよ。では30秒測ります。最初言う人、手上げて、はい最初言う方、右側の人最初言ってもらいます、いいですか、はい、よーいスタート。会場を映してください、会場の言い合いっこしているとこを映してくださいね。(30秒経過後)ピピピッピピピッピピピッピピピッ、はい音なりましたか、音聞こえますか、終わりでーす。じゃあ、お隣の方と交替します。よーいスタート。はい相手の方のいいところを言ってください。ほめてあげてください。ピピピッピピピッピピピッピピピッ、はい、ベル鳴りました。ありがとう。はい終わり。では今から手あげてもらいます。全員片方の手上げてください。それで、降ろしていってもらいます。相手のことを1つええこと言えた人降ろしてください。2つ言えた人降ろしてください、はい3つ言えた人、4つ言えた人降ろしてください。はい、5つ言えた人降ろす。まだ上がっていますか?6つ言えた人降ろす。7つ言えた人降ろしてください、まだ上がっていますか?ちょっと私見えないですが、まだ上がっていますか?もうない、まだある、8つ。はい会場の方明るくしてもらって、8つ、まだ上がっていますか?はい9つ言えた人、最後まで上がっていた人にご褒美でーす。はい、ありました、はい、そこ、ここの前の方も、はいありがとうございました。はい、このあっちの方にいますね、はいありがとうございました。あのへんね、はいありがとうございました。あっちのほうに手上がっていますね。はい、ということで今ちょっと競争してもらいましたけれども、皆さん方は全く知らん人かもしれへんし一緒に来た仲間かもしれないのですけれども、隣の方と相手のいいところを探す努力をしてもらいました。目がパッチリですねとか、化粧がステキですねとか、いろいろ言ったと思うのですけどね。そういうふうに家族のコミュニケーションの中で、もしかしたら今家族の悪いとこばっかり見つめて言ってないでしょうか。これからは「今日この講演聞いて何学んで来たの?」って帰ったときに、相手のいいところをさがす努力をしてください。今まで家族というのはお子さんであっても悪いところばかり見つけてきたけど、いいところいっぱい持っていると思うのですね。いいところを見つけていいところを探す努力をして、そして言葉に表すということ、この積み重ねによって人々はみんな幸せになるのじゃないかなぁって思っています。今日はこんな大勢の前でとても緊張したのですけども皆さん一生懸命聞いていただいて本当にありがとうございました。
 ロビーのほうで私たちの障害者団体の障害のある人たちが心を込めてつくってくださった作品とか、私が入院中に作ったキーホルダーとかもあります、あと脳の活性化をするためのジグソーパズルとかも並べさしてもらっておりますので、売上金のほうを障害者団体のほうに寄付させてもらうということでご協力いただけたらありがたいのですけれども。最後に私が今、ものの思いの変え方ということで、いいように思いを変えていくっていう話をさしてもらいましたけれども、2年前にこの大腸とさようならしました。あまりにも大腸から出血をして何回も入退院を繰り返すということで、大腸を全部取ってしまいました。最初は何でこんな私ばっかり病気になるのだと思いました。足が悪い上に手も不自由でもう大変な思いばっかりしてきた。私にばっかり病気がくる、こういうふうに悲しい思いをしたこともあります。皆さん方も何でうちの子がって思うこともあるかもしれません。でもその時に私は思ったのです。「今まで大腸さんありがとう、私の水分を全部吸収してくれて。」メロンの大食い大会で準優勝したこともあるのですよ、そのたくさんのメロンの水分を一手に引き受けてくれたこの大腸さんとさようならしてしまって今は人工肛門っていうのを付けることになってしまったんですね。この時ちょっと悲しかったんです。でもそのとき思いを変えました、もう大腸がないということは「大腸がんにならないんだ」そういうふうに思いを変えた時に今がんの中で死亡率がトップを走っている大腸がんになることがなくなったということで喜ばしてもらおうと。何でも喜ぼうと。喜んで喜んで喜んでいるうちにまた別の意味でこういった皆さん方と出会える機会を与えてもらえたなどという幸せが近づいて来るわけなのですね。ということで今日は本当に皆さんご静聴ありがとうございました。

司会
 貴重なご経験を交えながら楽しくそして和やかなご講演をいただきました。柳岡様に今一度大きな拍手をお送りください。ありがとうございました。また、先ほどから皆様にご案内をさせていただいておりますロビーのほうでは柳岡さんの手作りのキーホルダーなどグッズの販売を行っております。社会福祉法人の障害のある方が心を込めて製作した作品もございます。また売上金の一部は障害者団体の活動資金として寄付されることになっています。皆様の温かいご協力をお願いいたします。お帰りの際には是非ロビーのグッズ販売のほうまでお立ち寄りください。さあ、それでは会場の皆様からの質問をお受けいたします。係の方がマイクを持ってお席まで伺います。ご質問のある方は手をあげていただけますでしょうか、お願いいたします、どうぞ。前から3列目の男性の方ですね。もうお座りいただいたままで結構でございます。ありがとうございます。

質問者
 楽しいお話どうもありがとうございました。私の子どもも全く無口で何にもしゃべらない子どもなんですけれども、先生今までに楽しい生活をされていたと思うのです、今までずっとすばらしい活躍をされて、ただ一点だけお聞かせください、その不自由な身体で今まで一番悔しい思い出がありましたらそれだけ聞かせてくれませんかね。

柳岡先生
 誰も人のいないとこでこけた時です。起こしてもらうことできないんで人が通りかかるのをずーっと待っていました。で、やっと通りかかったのが子どもで力がなくて起こしてもらえなくて誰か呼びにいってもらって、やっと大人の人来てくれて起こし上げてもらったっていうことですね。それと誰もいない時に千円札落としてね、落とした時これ(リーチャー)持ってなかったんですよ、これ普段持ち歩くものじゃないんです、部屋に掛けとくもんなんでね。これ絶対拾って帰りたかったので蹴飛ばして帰る訳にいかないので何としても飛ばないように足で押さえていました。人が通りがかるのを待っていたのですけどなかなか誰も通りがかりません。田舎ですからね、大阪でしたらすぐ誰か通りがかって、でもその大阪で人に持って行かれたら困るけど田舎なので「ハイ」ってそのまま拾ってくれました。

質問者
 大阪でしたらみんなしらん顔でしょうね。どうもありがとうございました。

柳岡先生
 はい、他にないですかー、何でも聞いてくださいよ。ちなみに、質問出るんですよ、これ(リーチャー)、子どもさんは「これ落としたらどうするの?」っていう質問出るでしょう。大人は違うんですよ「これどこで売ってるの?」「これいくらするの?」って聞かれるんですね。そういった楽しい質問でもいいですよ。

司会
 ちなみに、おいくらですか?

柳岡先生
 これね、リーチャーって言って福祉用具の専門のとこで8千円ぐらいですかね、結構高いんです、おもちゃみたいですけど。高速道路のチケットつまみ機、あれやったら安いんですけど。

司会
 なるほど。他にございませんでしょうか?せっかくの機会でございますので。はい、前方の男性の方ですね。

質問者
 今日はありがとうございました。あのう、ピンポン球を取るね、それそれ(ポテトチップスの筒)感動しました。そういう発想っていうのはご自分で考えたんですか、それともどっかで何かヒントがあってそういうのを作られたのですか。


柳岡先生
 ポテトチップス大好物でね、ちょうどその時に卓球のボールを「何とかならんかな?」っとか思ってね。これ(リーチャー)ではなかなか拾えないってことで、これ(ポテトチップスの筒)いいでしょう。老人ホームで欲しがってね。このあいだ講演したとこへプレゼントしたんです。新しいでしょう。また作り直したんです。だからまた最近ポテトチップスばっかり食べて太ってしまいました。

質問者
 ありがとうございます。

司会
 ありがとうございました。作り方はちなみに簡単ですか?

柳岡先生
 ポテトチップス(の筒)2本ぐらいかなあ、これをガムテープで貼ってね、穴抜いたんですね、ここにゴムを引っかけたんですね、このゴムの強さでだいたいピンポン球3個ぐらいいけますね、はい、ゴルフボールは重すぎてダメなんです、いろいろ体験してみたのですけどね。これ(リーチャー)でもちょっとしんどいですね、夏みかん、はっさくつかもうとして、ここポキッと折ってしまったんです、いろいろ経験して、この(リーチャーの)先に磁石が付いているので針とかは拾えるんですけど10円玉拾いにくいのですよ。で、10円玉拾う時はここにガムテープを付けてピッと貼り付けるようにするのですけどね、いろいろ工夫したら楽しいし、10円でも拾わなくっちゃ。

司会
 失敗は成功の元と言いますから、失敗を経験してあのポテトチップスの筒が生まれたということですね。他の皆様(質問)いらっしゃいませんか?よろしいですか?

柳岡先生
 表にグッズを売らしてもらっていて、そこのグッズの中に私の住所、電話番号とか入れさしてもらっているので、個人的にご質問あった方は電話でもください、また私の「柳岡克子」っていう漢字4文字をパソコンとか携帯でヤフーで検索してもらいますと、今日の講演の内容がインターネットで見ることができるんですね、ですから今日ここに来れなかった家族さんとかに、どんな講演だったのって聞かれて、隣の知らないおっちゃんと手をつないだなんて言えないでしょ、ですからインターネットのYouTubeっていうのをクリックしてもらったら10分のダイジェスト版にしてあるんですけどもまたご覧いただくことができますし、またホームページの方では私が今日1時間半ではしゃべりきれなかった障害者の活動とかいろんな活動について書かしてもらっていますので、ゆっくり時間のあるときにご覧いただけたらなあって思います。柳岡克子と漢字で書きます。で、フェイスブックにも登録しておりますので、またお友達申請とかしていただきましたらお友達でメッセージくださいね.
またどこでも講演に行かせてもらいますから呼んでくださいましたらありがたいと思います。今日はどうもありがとうございました。

司会
 ありがとうございました。柳岡先生から今日はたくさんの勇気をいただきました。今一度柳岡先生に大きな拍手をお送りください、ありがとうございました。

 
 
 

 

 同じ目線で思いやって 柳岡さん講演

15年03月02日 17時55分[社会] わかやま新報掲載

 「誰もが元気になるセミナー」が2月28日、和歌山市手平の和歌山ビッグ愛で開かれ、講演や映画鑑賞などを通して約100人がより良い福祉の在り方について考えた。

 社会福祉の向上に取り組む「和歌山地域ソーシャルネットワーク雅」が昨夏に続いて開いた2回目のセミナー。「車いすの元気配達人」として全国で講演活動を行っている介護支援専門員・社会福祉士の柳岡克子(よしこ)さんが「本当の福祉とは〜 気配り・目配り・思いやり〜」をテーマに講演した。

 両手足に重度の障害を持って生まれた柳岡さんは、学校の先生や友人に支えられながら過ごした幼少期から、大学在学中に手動式の車の運転免許を取得したこと、障害者卓球に出合い、全国大会で優勝したことなど、パワフルな半生を紹介。福祉については、「何かしてあげないといけない、と思うのは上から目線」と、相手と同じ目線でいることの大切さを話し、「じっくり相手を見て、何を必要としているかを見極め、思いやるのが本当の福祉」と語った。また「相手の良いところを見つける努力をして、感謝の気持ちを伝えること。ぜひ実践して」と呼び掛けた。この後、介護をテーマにした映画『かあちゃんに贈る歌』が上映され、同作の葉七(はな)はなこ監督と関西で人気の介護講師・谷崎洋美さんによるトークショーなどもあった。

 主催団体の谷正義さん(30)は「セミナーを通していろんな視点から福祉について考えてもらうことで、地域のみんなで助け合えるようなネットワークづくりのきっかけになれば」と話していた。

講演する柳岡さん
講演の内容
演題「生きている喜び」
● 障害を持って生まれる
 東京オリンピックの年御坊で仮死状態で生まれる。和歌山市での2年半の入院生活。手術、リハビリ、マッサージなどを繰り返す。歩けるようになり退院。幼稚園で障害を自覚、認識。就学前検査にて養護学校を紹介される
幼稚園でじゃんけんがおかしい。はちまきがくくれない。おしっこが一人でできない。障害を自覚。
ポータブルトイレ設置で御坊小学校入学。入学式で担任から説明。退屈な体育の時間。水泳の練習。50メートル泳げたこと。達成感。思春期の悩み。自転車に乗れない。荒れた中学校で自殺を考える。音楽を支えに。高校の修学旅行。クラスの友情。4階の音楽室。自立を考え大学を受験。一人暮らしのため車の運転免許取得。神戸学院大学薬学部入学。マジックハンドで生活。
―――――――――マジックハンドを見せる――――――――――――
自立への周りの厳しい理解。本当の福祉とは、できること、できないことの見極め。できることは自分で、できないことに手を貸すこと。「何かお手伝いしましょうか?」の一言をかける。できることまでやってあげるのは、やる気を損なわせ怠けさせる。おせっかいだ。教室での消しゴム。部屋でのお箸。寮での掃除当番。薬剤師の国家試験。学習塾を経営。子どもの目線で。
● 卓球との出会い
 障害者と出会い障害者に励まされる。パラリンピックを目指して練習。
――――――ポテトチップスの筒を見せる――― 
     ――――――ビデオ10分―――――――――
● 命を大切にするとは 
・大病をして命の大切さを感じる。生まれ変わった命(卓球のボールの規格が変わる。)の使い方。
・点滴だけの入院生活からスプーン一杯のおかゆがおいしかった。口から食べる事への感謝。
・どれほど科学が進歩してもいまだに草木1本、アリ1匹作れない。
・人が生きていくには、空気、水、熱、光、紙、服、電気、食べ物、等あらゆるものの恩恵を受けて生かされている。
・人は一人では生きていけない。すべてに感謝せずにはいられない。この気持ちが大切。
・自分がうれしいことがあれば、それだけ多くの物や人に感謝して、恩返しのために人の役に立たせてもらいたい。
・この世に無駄なものはない。命には生を受けた意味がある。生ゴミも土に返して堆肥にする。
・自分の命を大切にできる人は相手の命も大切に思える。
・一人で大きくなったような気でいるが、おむつを替えてくれたのはだれ?ミルクを与えてくれたのはだれですか?
● 天の銀行に貯金(徳を積む)とは
* 目に見えない銀行があると思おう。給料以上働いた分はこの銀行に貯金されると思おう。きっといつか喜びとなって返ってくると信じよう。
* 廊下にゴミが落ちていたら、あなたはどうしますか?
@ 通り過ぎる A 「ゴミ拾うぜ」と言って拾う B だまってゴミ箱に入れる
* トイレットペーパーがなくなりかけていたらあなたはどうしますか?
   @ 最後まで使ってそのまま A すこし残す B 使わない C 取り替える
* どうすることが天の銀行に貯金をすることになるか?
・人に親切にする。
・困っている人を進んで助ける
・いつも笑顔でやさしい言葉を使う
・仕事や勉強につとめ励む
・自分がして欲しいことを人にする。人が嫌がることはしない
・先生や年上の人を尊ぶ
・まわりの人と仲良くする。家族は仲良く助け合う。
・人の良い所を見つけて悪口を言わない
・時間や約束を守り、うそを言わない
・無駄遣いをしないで始末にし、すべてのものや人を大切にする。賞味期限。
以上のことを人が見ているか、見ていないにかかわらずできるようになろう。見ていなくても出来る人が増えたら、平和になる。天の銀行に貯金のある人は、いつか幸せ、喜びとなっておろせるときが来ると信じている。
● 人のために生きるとは
相手を思いやり、相手の立場に立って考えること。
御坊市身体障害者福祉協会の会長として学んだこと
  カラオケ大会――――――――聴覚障害者は歌えない
  マジックショー(手品)―――視覚障害者は見えない
  宴会で2杯目のビール――――透析患者は水分を調節している
  旅行――――――――――――車いす対応バス
  運動会―――――――――――ペースメーカー・松葉杖、義足の方に配慮
  ビデオ上映―――――――――手話通訳、字幕スーパー、2重音声付
● 地獄と極楽の違い(お坊さんの話より)
長い箸でご馳走を食べる。
地獄・・・・取り合い、争い
極楽・・・・向かいの人へ食べさせる。皆喜びにあふれ幸せ
● 本当の幸せとは
・子どもがいる、いないこと お金があっても病気ばかり、遺産相続で兄弟が骨肉の争いなど
 この話を聞く耳を持っている。私が見える。ご飯がおいしいと思える。これも幸せ
・運動会で走らされた障害児。さらし者にされてつらいと。彼女は屈辱的に感じ、私は達成感を得た。その違いは?
・もっと美人に、もっと頭がよければ、もっとお金持ちに、もっとスポーツができたらと欲を言えばきりがない。皆ない物ねだり。また皆それぞれ悩みがあるでしょう。親が病気。商売がうまくいかない。子どもが言うことを聞かない。家計が苦しい。それをどう乗越えていくかはご自身の考え方次第。トラブルが起こった時相手が悪いと思っているうちは解決は遠い。運命を受け入れ、反省し、怒られたのではなく教えてもらったと考えた時相手が変わる。
・対人関係で悩む人が多い。コミュニケーション能力が不足しているといわれるがすべてに感謝の気持ちを持ち自分の心の器を大きくしプラス思考で喜ぶ事でトラブルがなくなる。悩んでも解決しない。暗い顔をせず、しんどい時こそ笑顔で吹き飛ばせ。
・私の母は「ゼロからのスタート」だと言います。
「一生寝たきり」と言われた私が歩いた。学校へ行けた。仕事が出来た。すべてが喜べたと。気持ちの持ちよう。悲しい、と泣いても解決しない。「できない」とあきらめるのではなく、できることを増やす。できたことを喜ぼう。
・あたりまえの中の幸せ
私たちは、毎日当たり前のように暮らしています。でも、病気になったとき、はじめて健康な体のありがたさに気づき、親元を離れて、はじめて家族の大切さを知ります。
毎日、ごく当たり前のように思っていたことが、実はとても幸せだったことに気づきます。今の平凡な暮らしの中に、普段気づかない『小さな幸せ』が潜んでいることをもう一度、見つめ直すことも大切ではないでしょうか
・5つの言葉    「はい」       素直な心
          「すみません」    反省の心
          「おかげさまで」   謙虚な心
          「ありがとう」    感謝の心
          「させていただきます」奉仕の心
 メッセージカード入りキーホルダー
「挨拶あいうえお」挨拶は「明るく」「いつでも」「人より先に」「続けること」愛を植える気持ちとはありがとう、いただきます、うれしい、笑顔、おかげさま、の精神で常に感謝をすることが大切なのです
 今日のご縁を大切に明るく前向きに生きていこうではありませんか。ご静聴ありがとうございました。


●「天の銀行」より抜粋
 私は、10年ぐらい前から全国各地を講演活動させてもらっています。地元でもさせてもらい新聞にも掲載していただきましたが、紙面には字数という制限があり一時間半の講演でも一分で読める記事になってしまいます。90分の前半は私の生い立ちから卓球をはじめたところまでです。ビデオ上映をはさんで、後半が私の一番伝えたい部分なのですが、その頃にはほとんどマスコミの方は帰られます。先日、加古川市の老人大学OBの研修会で500人の高齢者の前でお話させていただきました。母も付いていってくれたのですが、帰りがけに皆握手を求めてくれ涙を流して感動してくれました。何がよかったのか私も知りたくて大人の会ではあまり取らないアンケートといった感想文を書いてもらいました。<BR>
 その中で、一番大勢の方がよかったと書いてくださった内容が天の銀行に関するものでした。人の知らないところで働き、目に見える銀行に貯金されないお給料は「天の銀行」に貯金されるという話です。仏教では徳を積むと言うそうです。拝金主義の社会では損だと思われがちの地道な仕事やお金にならない活動でもきっと神様、仏様が見ていてくださると思えば無駄ではないのです。いつか喜びとなって巡ってくると私は信じていると言わせていただきました。そのような精神の人が増えれば幸せな人が増え、平和な世の中になるとも。では具体的に徳を積むとはどのようなことを言うのか考えてみました。人に親切にする。困っている人を進んで助ける。いつも笑顔でやさしい言葉を使う。仕事や勉強につとめ励む。自分がして欲しいことを人にする。人が嫌がることはしない。先生や年上の人を尊ぶ。まわりの人と仲良くする。人の良い所を見つけて悪口を言わない。お世話になったら何倍もお返ししようと努める。時間や約束を守り、うそを言わない。無駄遣いをしないで始末にし、すべてのものや人を大切にする。家族は仲良く助け合う。まあ、こんなところかなと思いますが、改めて私が加古川まで行って言わなくてもと思いますが今の世の中この精神が失われつつあるのだそうです。だからこそ感想文によりますと「思い出させてくれてありがとう。」となるのです。実際私もどこかで習ったことはあるがいつだったかどこでだったか思い出せないが大切なこと。あたりまえだと思って忘れていたこと。なのです。ところがこれが教育勅語の口語文訳と一致するところが多いのです。阪神の星野氏が逮捕前の村上容疑者に「天罰が下る」と言及したことはテレビで有名な話ですが、学校では「悪いことをしたらバチが当たる。」とは教えられないのです。宗教教育もダメで、神様も仏様も学問として習うのです。にもかかわらず、結婚式はチャペルやお宮で、死んだらお寺で葬式をする日本人の心の教育を教育機関が指導できない戦後教育のひずみを今しっかり見直そうというのが道徳教育の教科化につながると思います。<BR>
 500人もの大勢の加古川の80代のお年寄りたちは皆元気でいきいきして月1回の研修を楽しみにしているとのことでした。元気でない人は来ていないけど・・・。人口比率10分の一の御坊と比べても意味がありませんが、おしゃれで若々しく「元気をもらったので長生きして老後のために勉強するのですよ。」と帰っていかれました。
 
30年前の私
 私が中学1年生の時、弁論大会で発表した作文


  生きている喜び
                               御坊中学校1年 柳岡 克子

 近ごろ、青少年の自殺が増えてきているように思います。毎日のように新聞に中学生や高校生の自殺が出ています。どうして自分で死を選び命をたつのでしょうか。自殺しなければならないほど苦しいことがあったのでしょうか。わたしはどんなに苦しいことがあっても生きていれば、きっと生きている喜びがわかるということを言いたいのです。
 わたしは、5年生の時ヘレンケラーの本を読みました。この本を読んで生きている喜びがわかったのでした。三重の苦しみを持ったヘレンケラーに比べれば、ずっとしあわせだということがわかったからです。わたしは階段を登るにもおりるにも友だちの手を借りなければなりません。そのたびにみんなと同じように走ったりすることができたらなと思いました。しかしわたしは目も見え、耳も聞こえいいたいことが自由にいえる。だからこそ、今のように元気で生きていられることがありがたいのです。ヘレンケラーはからだの不自由な人々に、勇気を与えてだれにも負けず、望みを失わず、明るく生きることを教えてくれました。わたしは望みを失って自殺をしようとしている人にせいいっぱい生きて、生きている喜びを味わってほしいと思います。
 死んでしまえば楽になると思っている人が多いでしょう。死んでしまえば楽になるのでしょうか。れいのわかる人は、もっと苦しい世界にはいるといいますがそのようなことはわたしたちにはわかりません。
しかし、あとに残った人々がどのように悲しむかなど考えてもみなかったでしょう。人のことを考えもしないで自分かってに、命をそまつにして、自殺するような人が許せません。と同時にわたしたちは決してひとりでは生きていくことができません。それなのに、大切な命をそまつにしないようにしてほしいと思います。
 今から32年前、戦争という国と国との争いのため、どんなに生きていたくてもある時は戦場で、ある時は空しゅうでたくさんの人々が死にました。32年たった今の世の中は平和でほしいものがあれば店に売っている。けがをすれば病院へ行くとなおしてくれる。わたしたちは、このように世の中に、人々に、親にたよっています。だからちょっとしたことで自殺までしようとするのです。そのようなあまえたことでどうするのです。わたしたちは、これから、将来おとなになっていくあいだいろいろなことに出合うでしょう。しかし、なにごとにもくじけずに、どうどうと生きていこうではありませんか。自ら命をたつようなことはしないで、お互いになやみごとを話し合い自分に強く生きていきましょう。