『生きている喜び パラリンピックをめざして』
 私は、東京オリンピックの年、安珍清姫で有名な道城寺の近くの和歌山県御坊市で生まれた。
 長い間子どもに恵まれなかった父母にやっと生まれた姉は一か月で死んでしまい、一年後、授かった待望の赤ちやんが私だった。ところが、仮死状態で生まれ、「あちこちに異常があり、脱臼もしていてとても治療が難しいので、大きな病院を紹介しましょう」と、お医者さんに言われ、和歌山市の病院へ入院することになった。そこで、「四肢関節拘縮症」と診断され、一生寝たきりの生活を覚悟させられたそうだ。生後一か月の赤ちゃんにもかかわらず私は、アキレス腱接合の手術に始まり、股問節脱日の手術や、指にお腹の皮膚の移植をする等、何度となく手術を繰り返し、リハビリやマッサージの治療を続けた。そして、二歳半でやっと歩けるようになり、退院して御坊に帰ってこられた。入院中の家族の心配や苦労には、はかり知れないものがあったと思うが、私は幼なすぎて手術台の上でも恐怖も痛みも知らず笑っていたそうだ。
 私が覚えているのほ幼椎園の頃からで、歩き方をまねされてみんなと違うとわかったり、じゃんけんがおがしいと笑われたり、おしっこが一人でできないことが不自由だということに気がついた頃だ。
よくこけるし、こけても一人では起き上がれなかった。ちょうどその頃、祖母が交通事故で右足を切断し義足での生活になる。一緒にお風呂に入って義足を脱ぐと、ソーセージのように丸く足首はなく膝から下は細くやせていた。けれども、普通の人と同じようにがんばる姿に、幼な心に励まされたものだ。わが家には、二人の障害者がいたが決して特別扱いはせず、ごく普通の家庭だった。
 小学校の入学にあたり、施設の方がいいのだろうか、養護学校にしてもらおうか、家族はいろいろ思案した。それで、父は学校のトイレの一つの壁に手すりをつけてくれ、ポータブルの様式の便器を置かせてもらうことで、健常児と一緒の教室で勉強させてもらうことになった。母は私の送り迎えのため車の運転免許を取ってくれ、その後十二年間、毎日朝夕送り迎えしてくれた。弟を妊娠していた時も臨月でハンドルが回らなくなるまで運転していた。七歳にして、私はお姉ちゃんになった。
 普通学級で学ぶにあたり、小学校時代の担任の先生はみんな、とてもよくして下さった。まず、クラスに障害をもった子がいることを話してくれ、「みんな同じ人間だから笑ったり、つきとばしたりしないで、困っていたら手を貸してあげよう」と、初めに話してくれた。みんなと一緒の学校は楽しかったけれど体育の授業は退屈だった。体を動かすことは好きでも、体力的にも無理があるし危険でもあった。いつも見学でつまらなく思っていたころ、永泳の授業に母も一緒にプールに入り練習させてもらえた。特にうれしかったのは、五年生の時、浮き輪なしでは泳げなかった私が、毎日練習して、距離を伸ばし、先生や友達の拍手の中、五十メートルを泳ぎきった事だ。その時ほとてもしんどかったけれど、がんばれば、私にもできることがあるという自信となった。その頃、教科書に野口英世の伝記があり、小さい項、やけどがもとで不自由な指となり、笑われながらも困難を乗り越えて、医学の道で黄熱病の研究をした偉大な人のことを知った。その後、日、耳、口に三重の障害をもちながら克服していったへレンケラーの伝記を読み、世界にはすごくりっばな人がいることを知り、それ・らが励みとなりがんばれたのだと思う。
 しかし、中学生になると、思春期に入り、自分の体についてあらためて考えてみた時、頭ではがんばろうと思っていても、悲しくなることもあった。当時、非行で問題となっていた中学校だけに、いじめや暴力事件もよく見かけ、先生方の親切がかえって他の生徒からは、先生にひいきされていると思われ陰口をたたかれた。それが、体のことをうわさされているのではと悪い方に受け取ってしまい「いっそ死んでしまおうか」と自殺を考えたこともある。健常児と一緒の学校に行かせてもらえたことは今振り返ると本当によかったと思うが、当峙、私より不自由な障害者と接する機会がなかったので、自分が一番不幸だと思ってしまった。そんな事ぐらいでと、思うかもしれないが、毎日送り迎えしてもらうことすら、道草ができないと不満に思えることもあった。自転車に乗って自由に友達と遊びたい。ささいなことでも、みんなにできることが私にできないことがある度に悔しかった。しかし、「今、死んでしまったら今までつらかったことや悲しかったことに辛抱してきたことが無駄になってしまう」と、思いとどまった。吹奏楽部に入り、悔しさをドラムにぶつけてたたいた。それは、・泣いたってわめいたって私の体が良くなるものじゃないことに気がついた瞬間だった。じゃあどうすればいいのか考える力もないまま高校生になっていた。
 日高高校に入って、音楽を続けたかった私は、四階に音楽室がある合唱部に入った。毎日のクフブ活動は練習よりも階段の上り下りの方がしんどかったが、多くの友達が力を賃してくれた。また、母も一緒に車椅子で信州の修学旅行に連れていってもらい、生まれて初めて雪景色を見た。このように、私は多くの人の力を借り、すばらしい環境の中で教有を受けさせてもらった。しかし、高校卒業を間近にひかえ、家族はこれから先の自立への道を模索した。それで私は親元を離れて一人で生活するのはとても不安だったが、大学受験の勉強をはじめ、神戸学院大学薬学部に合格した。高校卒業後すぐに手動式の自動車を購入して、自動車学校へ持ち込んで専属の教員をつけてもらい車の運転免許を取った。下宿も、膝が曲がらないので、足を伸ばしたまま入れるお風呂のあるところを探した。そして、親切な大家さんが近くにいる寮が見つかり、神戸での生活が始まった。
 まず、マジックハンドという道具でソックスをはく練習をし、料理も洗濯も身の周りのことは何でも一入でできるようにした。一人で生活してみて初めて家族のありがたみがわかった。自炊だったので買い物等大変だったけれど、街では見知らぬ人に荷物を持ってもらったり、階段で手を賃してもらったり親切にあったことも今ではいい思い出となっている。大学の方も私が入学したことにとても協力的で、階段には手すりをつけてくれ、教室の近くまで車の乗り入れを特別に許可してくれた。薬学部の授業は実習もあり、普通の学生でも大変なのに、四年間で卒業できたのも周りの友達のおかげだと思っている。
 私が神戸で成人を迎えてよかったと思うのは、これから社会の中で生きていく強さのようなものを感じとれたからだ。今までの私を全然知らない人達の中でどう自分を理解してもらうか、健常者の中で共に生きていくにはどうしたらいいのか、そういうことを考えたり、一緒に考えてくれる友達に恵まれたのだ。私が障害者だからといって、何もかもやってもらうのではなく、できないところでカを賃してもらうことだ。時には甘えてしまうこともあるが、その線の見きわめのしっかりできる仲間に恵まれたことが幸せなのだ。共に生かしあうという程、私は誰かのために役に立てたという実感はないけれど、四年の間に多くの友達ができた。障害者と健常者の区別を超えた次元で、親しくなれた友達は、「一緒にいると楽しいし元気になれる」と言ってくれた。私の家族は何事もくよくよせず朗らかで、私も明るい性格になった私がいることで励みになって元気をわけてあげられるのなら、生きていて良かったと思った。
 二歳半で歩けるようになって退院してから特に大きな病気もせず、学校に行けたけれど社会に出る前に、膝や腰が曲がるようになれば少しは生活しやすいのではと思い、1度検査してもらおうと大阪の病院へ入院した。関節の可動域拡大や筋力増強のリハビリを毎日繰り返したが、手術をしても今以上によくならないことがわかり退院した。
 薬剤師の国家試験に受かった私は、今近くの薬局で働かせてもらっている。雇ってくれる会社があるのかどうか心配していたが、社長はとても理解のある人で、いろいろ気を遣ってくれる。私を雇うにあたり、従業員用のトイレを洋式に改造してくれ、入口はスロープで入りやすいドラッグストアだ。
このように、医療のおかげで命長らえた私が、医療の一端としての薬局でお仕事させてもらえるのも幸せてある。障害者は社会に甘えず、自立していこうとする意思を持つこと、そして、多くの人々がその自立への過程をときに厳しく、ときに思いやりの心を持って育てていくこと、これができて初めて、障害者も健常者も共に働き、遊び、人生を楽しむことができる社会が生まれると思う。障害者も社会に守られるだけではなく社会の中で普通に仕事して生活できてこそ、ノーマライゼーションの実現であり、国際障害者年のテーマである「完全参加と平等」の社会になると思う。
 スカートをはくと義足がばれるからといつもズボンをはいていた祖母は、家でも外でも元気で障害者であることを感じさせなかった。身体障害者の地域の役員をしていて、すたこら会費を集めたり、いろんな世話をしていた。障害者のスポーツ大会にも出場してメダルをもらってきた。祖母が死んだ後、私も何かと思い水泳を始めた。でも、足がほとんど動がせない上に腕の力も弱く、スピードは遅く水泳では無理を感じていた。
 五年前、障害者の水泳大会の帰り、憐の体育館で「わかやま卓友会」の練習を見た。卓球などできるとは思っていなかったが、私より体の不自由な人が生き生きとがんばっている姿に感動した。私が二歳の頃、歩く訓練のため入院していた琴の浦のリハビリテーションセンターの隣の体育館で、障害者が集まって棟習している。その時今まで健常者と共に生きてきた私は、健常者の目から見てしまっていた。ルールを覚えて試合をしてもらったけど、簡単に負けてしまった。勢いよく飛んでくるボールを1球も返せなかったことに、とても悔しい思いをした。彼らのボールの裏にある努力と練習は1つ1つの障害を乗り越えたあかしなのだと思った。私はその奥を見ようともせず、上辺だけで感動している自分が恥ずかしくなった。でも、よく振り返ってみると、忘れかけていたけれど私も障害者なのだ。私がすばらしいプレーに感動したのと同じように、私もがんばれば、だれかの励みになれるかもしれない。練習して、工夫すれば、勝てるかもしれないという闘志がみなぎってきた。
 高速道路がついて、和歌山市にある子ども障害者相談センターの体育館まで五十分。隔週の日曜日、車を運転して練習に行く。今まで障害者の友達はいなかったけど、練習に行っているうちに、気持ちの通しあえる仲間もできた。卓球でいいボールが返せる人はその技術が上手なだけでなく、みんな精神的にとても強くてりっぱなことも話していてわかった。事故で車椅子の生活になった人達、何年も病気と闘ってきた人達、私にはとても耐えられないような苦労を乗り越えてきた人ばかりだ。私は私目身の弱さや甘えを痛切に感じとるとともに、家族や友人、学校や職場にいかに恵まれたかを改めて感じた。今までは、障害者である自分がいやで、障害者であることを忘れようとしていた。でも、離れられないのだから、これからは、逃げたり、悲しんだりせず、堂々と、自分の障害とも仲良くつきあっていこうと思っている。
 一年ぐらいして、小さな試合にも出してもらえるようになった。やっと、ラリーが続くようになっただけで、負けることが多かった。そこで親しくなった県外の人達の練習量を聞いて、これではとても勝てない、と思った。それで、日高高校の卓球部にお願いして、放課後の練習に時々参加させてもらった。木曜日の夜、美浜卓球愛好会の練習にも仲間入りさせてもらって練習した。私は落ちたボールが捨えない。私の相手をして下さる人にはボール捨いの負担をかけながらの練習になる。それにもかかわらずみんな快く指導してくれたことに本当に感謝している。
 おかげで、一年前、広鳥で行われた第二十二回全国身体障害者スポーツ大会で金メダル。静岡、大坂、神戸のクラス分けの全国大会で二回優勝した。そして、この夏USオープン出場が決まった」。昨年の香港も、その前のチェコスロバキアでの大会にも選ばれることはなかった。日本の大会でいくら優勝しても外国でランキングポイントを取らなければパラリンピックには選ばれない。国内の優勝経験者の強化合宿で、香港の大会に行った人の話を聞き、世界の壁の高いことを知った。私にはとても無理だとあきらめていた時、出場の書類が届いた。私は、両手両足が不自由な「クラス六」という障害区分だが、障害が重すぎてダブルスを組めないので団体戦には出られない。それでも行きたい。せっかくのチャンスだから。全額自費の上、介助に母も付き添う。仕事のやりくりも大変だ。職場の人に迷惑をかけてしまう。家族にも負担をかける。新聞で報道された喜びの笑顔の裏には不安が広がっていた。その不安をはねのけるぐらい私は夢中になって練習したかった。そんな時近くの河南中学校の協力のおかげで吉川教諭に指導を受けることになった。渡米直前まで基本から試合運びまで短・朝問だが集中した中身の濃い練習をしてもらえた。
 全日本二十五名のメンバーの私以外の人は小さいころから卓球をしていて、事故や病気の後カムバックしたとか、卓球のしすぎで障害者になったとか、仕事を辞めて毎日何時間も練習しているとかすごい人ばかりだった。キャリアも練習量もとうてい及ばないが、忍耐力や何事にもチャレンジしていく精神など、私には見習うべき所がたくさんあった。日常生活では私より、不自由てあろうと思われる車椅子の人たちがどんどん世界の大会へ進出して、ポイントを獲得している。
 実際一緒に行って、バスや飛行機の乗り降り一つをとってみても大変なことだ。ボランティアなどはなく選手以外は団長と私の母を含め四人だけで、自分のことだけでも大変なのに助け合って荷物や車椅子を運んだ。一人が車椅子の人を抱きかかえて椅子まで運ぶ。抱いている間に別の人が車椅子のクッションを次に座る座席に置き換えなければ、床ずれができて困るそうだ。二十九人の一行は皆が協力し合っての旅になった。荷物を乗せた車椅子を片手で押し、もう片方で自分の車椅子をこぐ車椅子同士の夫婦は名古屋から夫の運転で成田まで来ていたり、空港のエスカレーターを車椅子で乗り降りできる人もいて驚くことばかりだ。
 私は「クラス六」の人が棄権して手だけの障害の「クラス七」の人と試合をすることになった。足が自由で左右に動ける人との試合は大変だった。そこで三位になれたのは、本当に幸運だった。オープン戦は初めから胸を借りるつもりで、勝敗より内容を重視した。負けたけれと、試合の後、私の精一杯のプレーを国際審判員がほめてくれた。
 ヒューストンで行われたUSオープンは、健常者の世界選手権で、オリンピックメダリストなど有名な人がいっぱい来ていた。そんな大会の障害者の部に出場できたことはよかったと思う。同じ会場の隣のテーブルで有名な健常者が試合をしている大会などは、日本には見られない。スケールの大きさに驚くとともに、バリアフリーの考え方が生かされている国だと思った。だから、レセプションでも障害のあるなしにかかわらず、選手と審判とが皆一緒になって楽しい時を過ごせた。
 パラリンピックヘの夢は夢として大きく持ち続けていたいが、実際のところ、日本選手団が約八十人と仮定したとして、卓球で十人以上の選手は望めない。夏の大会は種目が多いからだ。陸止や水泳などいろいろあり、バスケットやバレーは一チームでも大勢になる。だから、選考基準が厳しくなり世界を相手にメダルをねらえる人が選ばれることになる。障害者スポーツがリハビリの域を越えて、競技性が高まりつつある。今回のUSオープンは互いに助け合って楽しい思い出となったが、選考時にはライバルにもなる。何とも厳しい世界である。長野パラリンピックのテレビの映像から、障害者スポーツに多くの人が関心を持ち、勇気と感動をもらったことはすばらしい。私も、パラリンピックをめざしてがんばっていきたい。
 卓球を始めて学んだ事、知った事、出会えた人など、私にとってこの五年間に得たものは計り知れない。私が卓球をするにあたっては、多くの人にお世話になり、見知らぬ人にまで励ましていただいたことは大きな支えとなった。全くの初心者だった私を指導して下さった「わかやま卓友会」の仲聞や、その他多くの方々の協力のおかげでとてもいい環境で練習を続けてこられた事に感謝している。
 両腕を切断しながらも、「そのことが私に幸せをもたらしてくれた」と喜ぶ大石順教さんは、「体に障害をもっていても心の障害者になってはいけない」と、絶望の暗闇に光を与えてくれた。また、両手両足を失った中村久子さんも「いかなる人生も決して絶望はない。生きているのではなく生かされているのだから、どんな所にも必ず生かされていく道があると話している。
 私は、どこかに目に見えない銀行があって、人の気づかない働きは徳となって貯金されると思っている。天の銀行の貯金の多い人は、いつかそれが喜びとなって返ってくるものだと信じている。今まで私のために力を貸してくれた人みんなにたくさんの幸せが届けばいいなと願っている。
 卓球の練習の疲労がたまり、入院した時、時間がもったいないので、点滴をぶらさげながら、点字を勉強した。退院してからは手話サークルに入り、今まで肢体障害者とだけしか接したことがなかったが、視覚や聴覚障害者とも親しくなれた。指が曲がったままで、お箸と鉛筆が握れるようになるのに大変努力したことなど、もう忘れてしまっていた。そんな指だから手話などできないと思っていたが、読み取りだけてもできればと始めたのだ。聴覚障害者と一緒の卓球の試合で、紙もペンも持たない体育館で、へたな私の手話がわかってもらえてコミニケーションがとれた時、本当にうれしかった。
 今、私は介護支援専門員(ケアマネジャー)の資格を取るため勉強している。仕事の面においても今までの経験が生かされ、より多くの人々の役に立ちたいと思っている。重度の障害者であるがゆえに、重度の要介護者の立場に立ったケアができると思う。体に無理のない範囲で積極的に社会に貢献できるよう努力し、住みよい世の中で、楽しい日々が送れるよう福祉の増進にも力を注いでいきたいと思う。また、縁のある方がいたら結婚もしたいし子どもも育てたいと思う。障害があっても助けあって仲むつまじい夫婦がたくさんいることも知り、私の夢を広げてくれた。
 私は、家族も含め周りの人たちと、精神的なバリアははとんど感じない人間的なつきあいをしてこられた。物理的なバリアも、努力と工夫とみんなの協力のおかげで、不白由を感じないで生活ができる。バリアフリーを身をもって体験してきたからこそ、私を一人の人間として支えてくれた多くの人々や恵まれた環境に感謝している。そして、何事においても、明るく、前向きに、いつまでも輝いて、元気をわけていきたい。生かされた命に生きている喜びを感じながら…。