生きている喜び 〜助かった命を人のために〜
https://inochinorire.wordpress.com/2016/06/
車いすの元気配達人 柳岡克子
 45歳の誕生日、私は、和歌山県立医科大学のICUで生死の淵をさまよっていました。数日前の夜、自宅のトイレで下血。近くの病院に緊急入院しました。腸からの出血がひどく、絶食して点滴しながら安静にしていました。それでもフラフラして貧血で輸血をしていました。誕生日の前々日の夜中、ベッドサイドのポータブルトイレに大出血して倒れました。ナースコールを押してからのことは覚えていません。もし押せてなかったらどうなっていたかわかりません。
 明け方、少し意識が戻ったら野口の河川敷で救急車に乗せられているようでした。フワッと身体が浮いたような気がしたらドクターヘリで運ばれていました。15分ほどで和歌山県立医大の屋上に到着し、意識がもうろうとした中、手術の同意書やらなんやら説明を聞いていました。そして麻酔をかけられ手術室に入りました。
 目が覚めた時には、ICUで白い天井しか見えなく器機につながれて身動きが取れませんでした。面会時間に母に携帯電話を持ってくるよう頼みました。時刻を見たら1日飛んでいて誕生日になっていました。どれぐらい眠っていたかもわかりません。友達からの「誕生日おめでとう」のメールが入っていて、しっかり私は生きていると実感しました。年を取ることがこれほどありがたいと思った日はありません。
 33歳の時、初めて下血しました。でも痔だと思い、恥ずかしいので病院にも行かずほっておきました。2年後、トイレで大量の下血をして意識を失いました。昼間だったので母が発見して救急車を呼んでくれて国保日高総合病院へ入院しました。大腸からの出血ということで何も食べられない日々が続きました。口から物が食べられることはありがたいと思いました。1カ月ほど点滴での食事が続き、初めて出てきたスプーン一杯の目玉粥がおいしかったことは今も忘れられません。今まであたりまえだと思っていたことがこんなにありがたいなんて。もし夜中で発見が遅れていたらそのままトイレで死んでいたかと思うとほんまに良かったと思いました。
 それからというもの、下痢だと思ってトイレに行くと便器が真っ赤になるほど出血し貧血でフラフラになって倒れ、半年に一度の割合で入院しました。それでも間一髪のところでいつも助かりました。その時、私は生かされていると感じたのです。
 私は、両手足に重い障害があって産まれました。2歳半で少し歩けるようになっても不自由な生活をしてきました。幼児期のいじめや思春期の自殺願望などつらい思いを吹き飛ばして健常児と一緒の学校へ母の送り迎えで通いました。手動式の車の運転免許を取り、神戸学院大学薬学部を卒業しました。薬剤師になってドラッグストアに勤務しながら学習塾を経営し不登校の子供や非行の子どもたちにも体当たりで接してきました。障害者卓球と出会いパラリンピックをめざして卓球の練習に明け暮れていた頃です。足が痛くなり痛み止めの薬を飲んでいました。胃を悪くしたので座薬を入れました。それが腸への負担となったのです。薬は、出血の引き金になったのですが病名は、潰瘍性大腸炎という難病でした。小さい頃から、天ぷら、焼き肉、から揚げなど油っこいものが大好きでした。この病気になって食べられなくなりました。それがどんなにつらかったことか。腸が悲鳴を上げていたんですね。ずっと薬で抑えていましたが、とうとうボロボロになった大腸ともおさらばでした。45年私の大腸ともお別れすることになりました。断腸の思いという言葉があります。大腸を全部摘出する手術を緊急にしなければ命が持たないという判断でした。度重なる入院で学習塾も辞めざるを得なくなり、ドラッグストアも退職しました。今は全国あちこちで命の大切さを講演させてもらっています。「大腸がなくなって大変でしたね」と言う質問に「大腸がんにならないと喜んでいます。」と答えて笑いを取っています。今は、何でも食べることが出来ます。それが何よりありがたいなあと食べる喜びを味わっています。
 その日を境に人工肛門という友達が出来ました。これからは一生仲良くお付き合いをしていかなければいけない身体の一部となりました。取り外しが面倒くさいし、障害も増えてしまいました。でも私は生きている。神様、仏様、ご先祖様に守られて生かされているのです。この世にまだ私に与えられた使命があるのかもしれません。何回も死にかけたけど命ってかけがえのない大切なものだから、助かった命に感謝して、恩返しのできる活動をしていきたいのです。この度、公益社団法人日本オストミー協会和歌山県支部の支部長に就任しました。私を支えてくれた方へ直接ではなくても私を必要としてくれる方がいたら誰かの役に立ちたい。そんな思いでこれからもがんばっていきたいと思います。