母について 
 私の母サト子(71)は、常照寺の五男で御坊市議会議長や御坊農協組合長を勤めた哲量の次女として、御坊市薗で生まれました。和歌山県庁に勤めていた父楠美とは近所で幼馴染だったそうです。結婚してなかなか子どもに恵まれず3年目にやっと産まれた女の子が1ヶ月で亡くなり、2年後産まれた待望の赤ちゃんが私でした。ところが仮死状態であちこちに異常があって、日赤和歌山病院へ入院した私の看病のため、母は南海バスの事務員を退職しました。私は母の苦労を知りませんがたくさんの手術やリハビリ、マッサージなど2年半後に歩けるようになり退院するまで大変だったと思います。入院中から7つ下の弟が産まれるまで毎日本を読んでくれました。
 私が幼稚園に入る前に父の反対を押し切って車の運転免許を取って、それから幼稚園小中高校と朝夕送り迎えしてくれたのです。はじめは単車で私の体が大きくなって前が見えにくくなってからは車での送り迎えでした。中学生の頃「寄り道が出来ないからいやだ。」と思う事もありましたが、無遅刻無欠席の14年間でした。私は、「なぜ?どうして?」とよく質問する子でしたが忙しい時もうるさがらず答えてくれたり、一緒に調べてくれました。社会科見学や遠足や修学旅行には母もついていってくれました。プールの時間は一緒に水につかってくれました。でも神戸学院大学はついていけず、思い切って送り出してくれました。
 卓球と出会い、世界大会など飛行機を使う試合へはついていってくれました。一番の親不孝だと思うのは、腸管出血でトイレで意識不明で倒れたときです。この時はもうだめかと思ったそうです。仕事で夜遅くなっても起きて待っていてくれます。昨年、「御坊市議会議員に立候補したい。」と言った時、自分の父で苦労を知っているがゆえに反対しました。しかし、「応援してくれる人の期待に答えたい。」と言うと、誰よりも心強い応援団として裏方で支えてくれました。
 母は、「障害のお子さんを持って大変ですね。」と言われたとき、「ゼロからのスタート」だと言います。「産まれたときから仮死状態でゼロだと思えば、あと100点分がんばれる。60点ぐらいの普通の健常児にうまれていたらあと40点しか楽しみがないから、私の方が幸せだ。歩けたことも喜び、学校に行けたことも、仕事ができることも、プラスプラスでした。」と。
めちゃめちゃ明るく元気な母の前向きな考えは、私が生まれたときから信仰している念法真教の教えから来ています。先祖を大事に、いつも自分より人の喜ぶことに一生懸命になる人です。私がいろんな分野でがんばれるのは母のおかげですが、いまだに何も恩返しをしていないことが申し訳ないことです。ただ大きな声で言えることは母の子どもでよかったということです。それで多くの人に私の生い立ちを知って励みに思ってもらおうと、10年ぐらい前から母と一緒に全国講演活動しています。私より母に握手を求めてこられる方のほうが多いですよ。