メディアがとらえた絵になる障害者
  ~パラリンピックとチャリティー番組~
  
きらっといきる第15回ゲスト 柳岡克子
 9月7日からブラジル・リオデジャネイロで開催されたパラリンピックが12日間の競技を終え19日に閉会しました。170カ国以上22競技・528種目に 約4,350人の選手が参加しました。世界中のメディアが選手の生い立ちから家族、練習から試合までを取材し感動の番組となったことは言うまでもありません。
卓球では、日本から5名が出場しました。私と一緒に世界大会に行ったことのある別所キミヱさんは世界ランキング7位で4回目の出場でした。68歳ということもありメダルには届きませんでしたが「バタフライマダム」として長い金髪を編みこんで蝶の髪飾りをつけているのがトレードマークとなりテレビに出ていました。両腕のないエジプトのイブラヒム・ハマト選手は足でサーブを投げ、口でくわえたラケットで返します。その戦いぶりに世界中のメディアの注目が集まりました。
 折しも大会前の8月27・28日には、今回で39回目を迎える24時間テレビ「愛は地球を救う」が放送されました。土曜の夜には、難病だったり、障害を克服したり、ガンの患者をテーマにした感動の2時間ドラマスペシャルを挿入し、全国各地で募金を集める番組です。
 この番組のあり方について、作家の百田尚樹氏は、ベストセラーとなった著書『大放言』の中で、放送作家としての経験も踏まえながら論じているので一部を抜粋して引用します。「障碍者ドキュメンタリーのために、リサーチャーたちが「障碍を持ちながら、頑張って何かに取り組んでいる人たち」を見つけてきて、プロデューサーやディレクターや構成作家たちが、「絵になる障碍者」を撮影対象者として選ぶ。軽い障碍よりも重い障碍、大人よりも子供、男性よりも女性のほうが「絵になりやすい」と考えられている。そこに周辺の家族のドラマがあればよりいい。できればスポーツや音楽や芸術関係のほうがいい。多くの人が障碍者の実態を知り、彼らを支援していこうという輪が社会全体に広がるのは間違いない。それらは実際に貧しい人たちや恵まれない人たちを助けることになる。企業もイメージアップのために多額の寄付をする。だから番組の社会貢献度は非常に高い」と。これは制作の内側を暴露していて意味深でした。
 毎週日曜日19時からNHK・Eテレの『バリバラ』という障害者の為の情報バラエティー番組があり8月28日も放送されました。ちょうど裏番組が日本テレビの「24時間テレビ」だったこともあり「障碍者と感動」を結びつける風潮に疑問を投げかける内容の放送をしたことで、議論が起こっています。番組全体を貫いていたのは「感動ポルノ」というキーワードです。自身も骨形成不全症を患いながら、オーストラリアでコメディアンと ジャーナリストとして活躍したステラ・ヤングさん(1982~2014年)が唱えたもので、障害者を健常者が感動するための「モノ」として扱うような行為を指す言葉です。なぜテレビや新聞といったマスメディアは、障害者を「同情すべき人」あるいは「感動を与える存在」に仕立てあげてきたのでしょうか?「自分はまだ恵まれている」と健常者に思わせ、障害者が何かをやるだけですごいと思ってしまう価値観フィルターが存在しているのです。「障害があってもがんばれ」という美談がはびこっている現実をステラさんは指摘しました。
 私は、『バリバラ』の前の番組「きらっといきる」の第15回ゲストとして出演しました。30分番組で間の10分の映像ドキュメントの撮影に4日かけて密着取材されました。母も「障害のあるお子様を産んで大変でしたね?」とインタビューされ、「歩けたことも喜び、学校に行けたことも喜び、仕事が出来るようになったのも喜びで、60点ぐらいの普通のお子様なら40点の喜びをもらえますが、0点の仮死状態で産まれゼロからスタートしたので、100点分の喜びをいただけて私は幸せです」と答えました。母は、放送を楽しみに友達に「テレビ出るから見てね」と触れ回り、オンエアでカット。私は「大変でした」と涙の一つでも流しておけばカットされることはなかったのではないかと思いました。苦労した母親でないと絵にならないのです。きっと苦労はしているでしょうが、母には吹き飛ばす明るさがあり障害者の番組にはふさわしくなかったのでしょう。私も「料理を作って下さい」と言われ、カメラがまわる中チキンライスを作りました。しかし玉ねぎのみじん切りも細かく上手で「障害者らしく」なかったので採用されませんでした。また、選挙に立候補してしまうと落選しても次を狙っての売名行為として受け取られメディアからは遠のくのです。乙武君のようにぎりぎりまで引っ張って有名になった上での立候補であれば彼は両手足がなくさわやかなイメージでイケメンで「絵になる障害者」だったのです。そのさわやかさが裏目に出たスキャンダルもまたメディアとしてはいいネタとなったのです。
 障害者がメディアにとらえられるにはまだまだ多くの障壁があります。メディア側にも視聴者側にもバリアがあってこの心のバリアがなくなって、がんばらなくても、感動してもらうのではなく普通にメディアに出られる時代が来るよう願っています。