女性の立場から憲法を考える
 〜ペアテ・シロタ・ゴードンさんをしのんで〜
ウイズ・ア・スマイル会長 柳岡克子
 5月3日は憲法記念日で、国民の祝日に関する法律では、日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する日となっています。
 第2次世界大戦後に連合国軍総司令部(GHQ)の一員として日本国憲法の草案作成に携わり、男女平等などの条文を盛り込んだベアテ・シロタ・ゴードンさんが昨年12月30日、膵臓がんのため89歳でニューヨークの自宅でお亡くなりになりました。1923年、オーストリアに生まれ、著名ピアニストだった父のレオ・シロタさんが作曲家の山田耕筰氏の招きで、当時の東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授に就任したことをきっかけに1929年に来日し、少女時代の10年間を日本で過ごしました。日米開戦前に、大学進学のため日本を離れて米国に渡りますが、戦後GHQ民政局の一員として来日し、憲法の草案作成指令を受けて人権小委員会に所属。女性の権利を明記することに尽力することになります。その起案した内容が14条(法の下の平等)、24条(婚姻における両性の平等)につながったのです。

 戦後、日本の議会は日本国憲法が施行されるまで、大日本帝国憲法下での帝国議会のままでした。昭和20年政府は、帝国憲法改正の研究に着手することを閣議決定し、翌年、第90回帝国議会で日本国憲法の制定の作業を開始しました。その前に衆議院議員選挙制度改正があり、39名の女性議員が誕生しました。
 ゴードンさんは、5歳から日本社会で女性の役割を見てきました。社会的権利を全く持たず離婚もできず、財産権も相続もありませんでした。住居の選択も選挙権もありませんでした。アメリカの女性との社会的地位がずいぶん違いました。戦後再来日した時、民政局のスタッフとして1946年2月から憲法草案の作成が始まりました。極秘に進められ、様々な国の憲法を研究し、日本の女性に必要な権利について憲法に盛り込みたかったそうです。日本政府の代表者は男女平等について反対し具体的に書いた草案は、民法に入れるべきだと短くされました。そんな中、1947年5月3日、日本国憲法が施行されたのです。
 憲法草案に関わった時、ゴードンさんはまだ22歳でした。そんな若さが問題視されることもおそれ、半世紀近くにわたり憲法誕生への自身の関与については語りませんでした。しかし、90年代に入ってからは積極的に発言するようになり、自伝も出版しています。
 ゴードンさんの死亡に際して弔意を示したい方は護憲団体「九条の会」に寄付してほしいと遺言しています。自身がかかわった憲法に対しての思い入れは強く、80歳を過ぎても日本での講演をこなし、平和と人権の大切さを語っています。 その足跡は 『ベアテの贈りもの』 として2005年に映画化されました。
私は、戦後生まれで、日本国憲法下で育ったので戦前の女性の事はわかりませんが、外国人の発想があったからこそ斬新な条文になったのだと思います。今では、当たり前と思っていたこともこのような形で憲法に関わってくれた外国人がいたことを知り、改めてゴードンさんの偉大な功績に感動しました。
 憲法について改正、護憲など議論が盛んになってきました。半世紀以上も前に作られた憲法にもかかわらず憲法について知らなかったことが多いこともわかり、しっかり勉強し、考えなければならないと痛感しました。
 参照 憲法に男女平等起草秘話(岩波ブックレットNO.400)
   ベアテと語る「女性の幸福と憲法」(昌文社)