日本・トルコ友好の絆
  〜エルトゥールル号遭難事故の恩返し〜
新しい歴史教科書をつくる会 柳岡克子
10月1日NHKで「かんさい特集日本・トルコ120年の記憶〜エルトゥールル号救助・語り継ぐ子孫たち〜」という番組がありました。しかし、テレビで取り上げられなかった感動的な事実があることを知りました。
1890(明治23)年9月16日、串本沖でオスマン帝国海軍(現在のトルコ海軍)フリーゲート艦「エルトゥールル」全長76m、排水量2344tの木造フリーゲート艦が台風による大時化(シケ)にあおられ岩礁に激突し、座礁、機関部浸水の後、水蒸気爆発沈没しました。オスマン・パシャ少将を団長とするオスマン帝国初の親善訪日使節団として明治天皇に謁見した帰路でした。大時化の暗い海に投げ出された乗員たちに助かる道はありませんでした。オスマン・パシャ少将以下死者、行方不明者会わせ587名にも上りました。大島村(現在の串本町)に運良く流れ着いた乗員が、数十メートルの崖を這い登り、言葉が通じないまま助けを求めました。燈台守は村に「異国の船が遭難した」と知らせ村人総出の決死の救助活動が始まりました。時化で出漁できず、食糧は少なく、遭難者は寺、学校、灯台へ運ばれ村人の献身的な介護を受けました。非常用のニワトリまでが与えられました。遭難の一報は樫野区長から大島村長へ、村長から神戸の領事館へ伝えられました。エルトゥールルの乗員たちは無事神戸の病院へ収容されました。新聞は大々的に報道し全国から義損金が集まりました。明治天皇は大島住民の献身に感動されました。そして大日本帝国海軍コルベット艦「金剛」と「比叡」で乗員をトルコまで送り届けるよう命令しました。同年10月5日、品川を出航し、翌年1月2日、オスマン帝国首都イスタンブールに到着。エルトゥールル号の69名は、再び祖国の土を踏むことができたのです。この一件は、オスマン帝国でも大々的に報道され多くのトルコ人がはるか東の国、日本を「近しく親しい国」と感じるきっかけになったのです。
この事故における犠牲者たちを悼み、串本では慰霊塔が建設されました。最初の慰霊塔は日本側によって1891 年に建立され、1929 年に拡張され6月3日には昭和天皇が行幸しました。1937年にトルコによって慰霊塔は改装され、その後、毎年慰霊祭がとり行われています。串本町はトルコのメルシン市とヤカケント町と姉妹都市となりました。1974年には串本町に建設された「トルコ記念館」でもエルトゥールル号の模型と乗艦していた海兵隊や将校の写真や像を見ることができます。また、節目の年には、トルコ本国からトルコ海軍の艦船が訪れ、駐日トルコ大使などを招いて慰霊祭が催されます。
沈没から120年になるのを前に、トルコから遺品発掘のためトルコ、スペイン、アメリカの海底考古学者や地元ダイバーら8人で構成された調査団が串本にやってきました。そして日本人スタッフも協力しての潜水調査が始まりました。発掘調査は平成18年から5カ年計画で進められ、ダイバーが潜り引き揚げた遺品は、調理鍋や砲弾、陶器、ガラス製品の破片、五銭硬貨など5年間で6825点にも上りました。
事故から95年後1985年(昭和60)年、5年前に勃発したイラン・イラク戦争のさなか、一時のこう着状態は終わり、首都にも弾道ミサイルが着弾する激戦状態へと発展しました。イラク大統領サダム・フセインは「3月20日午前2時をもってイラン全土の上空を戦闘空域とする。当該空域を飛ぶ航空機はすべて攻撃対象とし撃墜する。」フセインの声明に世界中が慌てふためきました。先進各国は在イラン自国民を救出するため我先にチャーター機を発進させました。日本政府は日本航空にチャーター機を依頼、邦人救出に向けて動き出し、現地大使館に支持を出しました。イランに滞在する日本人は急いでテヘラン空港へ向かいました。「空港へ行けば助かる、空港へ行けば日本へ帰れる。」しかし、日本からのチャーター機が飛ぶことはありませんでした。JAL(日本航空)側は「イラクが指定した時間以内に安全空域まで脱出できるという保障がなければ飛べない」すでに成田空港に到着し、離陸準備に入っていたJALチャーター機はついに飛び立てなかったのです。どの航空会社も自国民を優先して乗せて、日本人を乗せてくれる便はどこにもありませんでした。空港で絶望した日本人がいました。テヘランの日本大使館は、トルコ大使館のビルレル大使に窮状を訴えました。「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人ならだれもが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょう。」と。2機のトルコ航空機が215人の日本人を乗せてテヘラン空港を離陸したのはタイムリミットまであと1時間15分でした。後日、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。」と語りました。日本とトルコの友好のきっかけをつくったエルトゥールル号の遭難事故は、日本では小中学校で教えられることもなく、「地方史のエピソードのひとつ」といった扱いしかされていないのです。私は、和歌山県民として誇りに思うと同時に、これらを歴史の1ページとして教科書に載せる運動を起こしたいと思います。また、日本人を救ってくれたトルコの人々を私たちは忘れてはならないのです。NHKが遭難事故の子孫に取材をしただけでトルコ航空の感動の事実に触れなかったことが残念です。
参照 串本観光協会詳細資料・YouTube決して恩を忘れないトルコ【テヘランの日本人を救ったトルコ】