神戸の大学に通えて(大学編)

生まれたときから障害があって、医師や看護婦さんのお世話になってきたので医療の分野で恩返しがしたいと薬学部を受験しました。でもどこかに理科の先生になりたいという夢をもっていました。子どもたちに身の回りの不思議を感じてもらい「なぜ・どうして?」と考える子どもを育てたいと思うからです。それで理科の教師の免許が取れる薬学部を選びました。キャンセルしても戻りの少ない入学金を振り込んでしまったおかげで滑り止めではなくなりました。もし国立の2次試験に受かっても和歌山大学では理科の先生になれても薬剤師にはなれません。両方なれる可能性にかけました。
 合格したものの御坊から離れなければなりません。神戸は受験で行ったのが始めての地で親戚も知り合いもいません。そこで出発までに2つのことをクリアしなければなりませんでした。1つは車の運転免許を取ることでした。神戸は坂が多く車椅子が使えません。バスは階段があって、西区なので電車もありません。自転車に乗れないし単車もダメでした。タクシーはお金が続きません。御坊の警察へ行くと和歌山で適正検査を受けてくるように言われました。そこで手動式ならとOKが出ました。しかし、障害者専用の運転免許センターでは何ヶ月も合宿しなければならず、4月の入学を目の前に行ってられませんでした。美浜町和田の自動車学校には手動式の車がありませんでした。あきらめないのがうちの親で車を購入して手動式の装置を取り付けて持ち込み、特別指導教員をつけてもらい習うことになりました。ところが大学の合格発表が2月26日だったので4月2日の入学式に間に合わなくなりました。この1学期は車のない生活でした。寮から大学まで600メートル歩いて通い大変でした。5月の連休に帰ってきて仮免許を取り、夏休み合格となりました。私の車には、左側に押したらブレーキ、引いたらアクセルの装置が付いています。右手のハンドルにはレバーがついていて回します。夏休みが過ぎ神戸へ免許取り立ての車を運転して戻りました。
 さて、大学で家族と離れて生活するとなるともう一つ困ることがありました。それは、腰が曲がらないので落としたものを拾えないことです。まだインターネットなどない時代でしたがいろんな人に聞き合わせて、父はマジックハンドを買ってきてくれました。これがあると何でもつかめます。ソックスも簡単に履くことができるのです。あすか寮という20人が共同で生活する寮に入りました。台所とお風呂が共同で部屋は4畳半1間の個室でした。掃除当番をするのですがお風呂の掃除は私には不自由なので19人でローテーションを組んでくれました。しかし、台所や廊下の掃除は私もできるからということで、20回に1回普通に順番が回ってきました。ここでは障害があるからといって特別なことは何もなく普通に生活しました。それを温かく見守ってくれ、私に出来ることは自分で、出来ないところで手を貸してくれる見極めのしっかりできる仲間に恵まれたのです。最初のころは家からの電話も多かったのですが友達もできて私からかけることも減って、家族の心配もなくなったようです。自炊だったので近くのスーパーへ買い物に行き自分で料理しました。近くにコンビニなどなく、試験前はおでんとカレーをたくさん炊いて、飽きないように交互に温めて、食事の時間も削って勉強しました。徹夜が続いても平気だった頃です。大学側の対応も早く私が入学したことで階段には手すりをつけてくださいました。また校舎の近くまで車で通学させてもらいました。
 薬学部の授業には実験があります。実習も一緒にし、長い時間かき混ぜる作業などは座ってさせてもらいました。明石市の薬局で一般薬の販売、日高病院で調剤の実習をさせてもらいました。土曜日の午後は、皆遊びに行っているのに教職課程の授業がありました。教育実習は日高高校で修了し、理科の教員免許ももらいました。卒業論文は実験が大変だろうということで、薬事法や麻薬取締法など法律の研究をしました。1学年上がる度に4人に一人は留年する厳しい大学でした。4年分の学費しか出さないと親に言われていたので、スーパーの掲示板に「家庭教師します。連絡ください。」の張り紙をしたり、学習塾でアルバイトをしてお金を貯めました。一番つらかったのは、私にノートをコピーさせてくれた友達が留年し、一緒に卒業できなかったことです。卒論や国家試験の勉強に明け暮れ、卒業旅行なんて誰も行けない学部でした。帰省の時、高校の同級生が話すレジャーランドのような大学生活とはとてつもなくかけ離れていました。
 薬剤師の国家試験には当時適正検査があって、医師の診断書が必要でした。その後なくなりましたが、障害があることで物理的なバリアだけでなく制度的なバリアもあることを知りました。しかし、多くの人に支えられ一つ一つクリアしていって社会に出て行くことができました。
 人生に「もし・・」と言う言葉はふさわしくありませんが、「御坊市の学校に通えていなかったら・・・」と思うと、また違った人生になっていたかもしれません。様々な私の人生の岐路には多くの方のご尽力があったことを忘れてはならないと思っています。本当にありがとうございました。