御坊市の学校に通えて(高校編)
多くの皆さんのおかげで御坊市の小中学校で義務教育を卒業することができました。9年間1日も休まず通ったのは、私ががんばったからではありません。風邪を引こうが熱でうなされようが、朝になると母が学校へ送ってくれたからです。体育があって行きたくない日でも、不登校になれなかったのです。入院も通院もなく元気に過ごせたのもよかったです。
日高高校に入学しました。その後3年間、母の無遅刻無欠席の送り迎えは続きます。御坊中学校以外からも大勢来ていて、私のことを全く知らないので、特別扱いしないさばさばした対応が新鮮でした。その分何が不自由でどこで手を貸してほしいかを伝えなければ誰も気づいてくれない不便さもありました。ちゃんと言えば皆親切でした。
クラブ活動の勧誘ちらしを見て吹奏楽部をのぞきました。スネアドラムではなくシンバルや大太鼓がついているドラムセットをたたいていました。足が踏めませんでした。がっかりしていたら音楽のM先生が「高校には楽器がなくてもできる音楽部があるのよ。」と4階の音楽室を指差しました。きれいな歌声が聞こえてきました。合唱部でした。歌が好きだったので入部しました。ところが音楽室は4階でした。66段の階段をクラブの友達が毎日手を引っ張ってくれました。練習がしんどかったなんて思ったことはありませんが合唱部の思い出といえば階段です。今でも時々OGとしてステージに立たせてもらうのが楽しみです。
高校2年生になると修学旅行で信州に行きます。私は小学校も中学校も母についていってもらって遠足に行きました。でも泊まり込みの修学旅行となると難しいのではと諦めていました。ある日の朝、ホームルーム委員が「放課後柳岡さんについての話し合いをするから集まって」と皆に呼びかけました。私は修学旅行の私へのお土産のお金をいくら集めて何を誰が買うか決める会だと思っていました。すると、1班から5班まで班分けして、荷物を持つ係り、階段を引っ張る係り、車椅子を押す係りなどグループで1日目から帰りの5日目までクラスの全員が私のサポートをする役割を決めてくれたのです。私はこの日ほどうれしかったことはありません。先生に言われたわけでもないし、私が頼んだわけでもないのに皆、私を留守番にと思わず一緒に行こうと思ってくれたからです。観光地と言っても今ほどバリアフリーではなかった時代で母も付いていきましたが別行動でずっとクラスの皆と一緒でした。初めて見る雪景色は車椅子を四つ太鼓のように担いで雪の上を運んでくれました。あの感激はクラスの皆が与えてくれたものです。
3年生が近づいてきました。進路を決める時期です。私は生まれたときから医師や看護婦さんのお世話になって命を救ってもらいました。だから医療の分野で恩返しがしたいと思いました。退屈な体育の時間のおかげで小学校の図書室の本をかたっぱしから読みました。中でも「なぜなに事典」をよく読んだので理科が好きでした。いずれにしても大学に行きたいと考えるようになりました。それでT型(理数系)のクラスを選びました。今までとは違って勉強に付いていくのが精一杯でした。でも学校の勉強に加え受験勉強もしなければなりません。受験勉強は夜遅くまで寝る間を惜しんでやりました。でもうちの親は二人とも「勉強せえ」とは言いませんでした。だからよけいにやりました。「こんな体だから行かせてもらえないかもしれない。でも受かったら行かせてくれるだろう。絶対に受かってやる。」と。実際御坊から通える大学はありません。父母にとっては大きな決断だったと思います。乙武君のように引越しなど出来ないからです。どこに合格しても家族と離れて生活をしなければならないのです。皆「一人でやっていけるか不安だったでしょう。」と聞いてくれますが、私は受験勉強で頭一杯でそんなこと考える余裕がありませんでした。そんなこと悩んでいる暇があれば英単語の一つでも覚えたかったのです。
年が明けても大学を選ぶに当たって医療の分野にするか理科の先生になるかで悩んでいました。出来れば和歌山県内でと考え5教科7科目も勉強して国立を目指して共通1次試験を受けました。2月に入ると私立です。理科の先生の資格が取れる薬学部を受験しました。そして神戸学院大学薬学部に合格したのです。皆がうれしくて国立の2次試験のことをすっかり忘れて入学金を振り込んでしまいました。大学編は次回に。