御坊市の学校へ通えて(小学校編)
柳岡克子
 奈良県下市町で脳性麻痺の児童が中学校の入学を拒否され、裁判となり先日やっと入学の許可が出たというニュースを新聞で読みました。このことがマスコミで取り上げられて以来、ブログで様々な意見が論じられていましたがどの意見もうなずけるものばかりでした。ですから賛否ではなく、私の体験を書かせていただきます。
 生まれつき両手足に障害があった私は、和歌山市の病院を2歳半で退院し、御坊に帰ってきました。御坊幼稚園には母に送り迎えしてもらい通いました。友達もできましたが、手のひらが開かないのでじゃんけんではいつも「グー」だと言われ、「パー」を出され負けました。この時、私は皆と違う体であることを感じたのです。こけても一人で起き上がれませんでした。和式ではおしっこが出来ません。それでもお箸と鉛筆だけは使えるようになりたいと何度も稽古しました。かなりの練習の成果があってへたくそでしたが読める字が書けるようになりました。食事はスプーンやフォークでも食べられるので練習を怠けたりしましたが、持ち方よりつかめるようになることに目標を変え、何とか食べられるようになりました。
 小学校に入学にあたり、就学前の適性検査がありました。「右」も「赤」も答えられ「あいうえお」も書けました。教育委員会は和歌山市にある養護学校を紹介してくださいました。見学に行きました。寮もありきれいでした。私の心の中には、「幼稚園の友達と離れるのはいややなあ。」というのがありましたが、それは言葉にできない叫びでした。私の父母は、和歌山市は遠いので、地元の学校を希望しました。そこで問題になるのが、トイレでした。父は当時まだ市場にあまり出回っていなかったポータブルトイレを探して買ってきて、女子トイレの一角に置かせてもらい、壁には手すりを取り付けさせてもらうことで入学を許可してもらいました。御坊小学校はマンモス校で特殊学級というのがあり、障害のある児童がクラスに籍を置いたまま、科目ごとに養護教諭から指導を受けていました。そこのI先生は「私が付かせてもらいますから安心してください。」と言ってくださいました。当時学年主任だったH先生のクラスになりました。入学式の日、教室でH先生は「このクラスには、体の不自由なお友達がいますが、決して突き飛ばしたり、いじめたりしてはいけません。皆で仲良くしましょう。」と言ってくれました。しばらく様子を見ようとしているうちに、テストもそこそこの点がとれ授業には付いていけました。結局一度もI先生の教室に入ることなく、普通学級で授業を受けました。
 毎日がとても楽しく、学校が大好きでした。幼稚園の違う友達も新しく出来ました。でも、嫌な日もありました。時間割に体育の授業がある日です。いつも見学でした。「できないから。」「危ないから。」と言う理由でした。どちらかというと体を動かすことは好きでした。好きだからこそ、風邪の子の横でじっとしているのが嫌だったのです。毎回感想文を書かされました。年に1回や2回ならまだしも毎回なので書くことがなくなってきます。運動会の前なんかは毎日あって、暑いので教室で「ぼけっ」としていると、図書館の鍵を開けてくれました。それからというもの体育の時間は、図書館の棚のかたっぱしから本を読みました。といっても物語より「なぜなに事典」や偉い人の伝記を好んで読みました。
5年生の夏でした。プールの授業がありました。私は、家族で海水浴には良く行きましたが、浮き輪がないと泳げません。学校は浮き輪が使えないし私だけ浮き輪というのは恥ずかしくて嫌でした。6年生で担任となるS先生は、今から56年前の7.18の水害の経験者で私を泳げるようにしたいと考えてくれました。担任のY先生はじめ多くの先生がたぶん職員会議で前向きに話し合ってくれたからだと思いますが、母も一緒にプールに入ることでプールの授業を受けることができるようになりました。体育のK先生は、黄色の帽子に黒いリボンをつけることにして、泳げるレベルに合わせてグループ分けました。私は一番泳げないグループでした。顔つけから始まって水のかき方、足の動かし方など丁寧に教えてくれました。他の子は教えられたとおりにすればすぐに前に進みます。あっという間に上のグループに進んでいきました。私はいつまでたっても黄色のままでした。そんな時、野口英雄とヘレンケラーの伝記を読んだのです。「世の中には、すごい人がいるんだ。」と感激し、「私も頑張ればできるかも。」と思いました。それで夏休みのプールの日には一日も欠かさず、参加し練習しました。努力のかいがあって、15メートル泳いで1本のリボンを付けてもらいました。そして25メートルもクリアして2本目のリボンを付け、5年生は終わりました。6年生の一番の目標は50メートル泳ぐことでした。かなり頑張ったおかげで先生や友達の見守る中、とうとう50メートルのプールの端から端まで泳ぐことが出来たのです。皆も拍手してくれ、私は本当にうれしかったです。
このように、地元の健常児と同じ学校で学ぶにあたり、バリアフリーなどという言葉もない40年も前から先生や教育委員会など多くの方が私を見守ってくださったことは本当にありがたかったことだと改めて思います。そんなこと露知らず、学校生活を送れたのも友達の励ましと父母の支えがあったからです。
障害の程度は様々で、介護度も違うので個別の事例について意見は言えませんが、奈良の事例は、裁判にまでならなくても話し合えなかったのかと感じるところです。せっかく入学できたのだからしっかり勉強して楽しい中学生活を送ってください。私の中学校編は次回へ続きます。