卓球と出会って
わかやま卓友会 柳岡克子
 毎日手に汗握って観戦した世界卓球は男女とも銅メダルというすばらしい成績を残してくれ、北京への期待は膨らみました。福原愛選手は小学生の頃、ミキハウスジュニアに所属し、王子卓球センターでサーブを習っていました。大阪で障害者の大会がある時には父武彦さん、母千代さんとコーチの黄さんと四人で来てくれ試合を見せてくれました。車いすの日本代表岡紀彦選手に惜しくも敗れ泣いていたのが印象的です。次の年は大差で勝っていましたが・・。
当時私はシドニーパラリンピックの日本予選を控え連日厳しい練習をしていました。週五日は日高高校卓球部で、木曜日の夜は松原小学校の美浜卓球愛好会で、日曜日はわかやま卓友会へ行き練習しました。河南中学校だった古川悟先生には週二日放課後生徒と一緒に教えていただきました。
そんな時、和歌山銀行の監督だった宮崎義仁さん(全日本男子監督)が私の出演したNHK教育「きらっといきる」のテレビを見て全面的に協力してくれることになりました。国体でメダルをもらうほど優秀な選手が揃っていた和歌山銀行の練習場で元全日本チャンピョン佐藤利香さん(明徳義塾中高女子監督)の指導を受けることができたのです。愛ちゃんが同じ仙台出身として尊敬する選手です。一歳の赤ちゃんを抱いて励ましてもらいました。毎週土曜日の朝、和歌山銀行で練習できることがうれしくて、自宅に帰っても忘れてはいけないと八畳と八畳の間のふすまを外して塾のテーブルを並べ復習をしました。今思えばすごい人達に囲まれての貴重な時間でした。
15年前、日高地方障害児者のつながりを広める文化祭の相談コーナーで「障害者の卓球サークルを探しています。」と言うと、すぐに調べてくれ「わかやま卓友会」との出会いが始まったのです。初めて行ったときの感動は今も忘れられません。目で追いかけることが出来ない速いボールと不自由な体を感じさせない機敏な動き。「私もやらせて!」と好奇心でラケットを握らせてもらったもののかすりもしませんでした。月一回琴の浦へ練習に行き、サーブ・レシーブ・カットなど基礎から教えてもらいました。少しずつ上達していきましたが、県外の選手と試合や合宿で出会い練習の話を聞いてこれでは勝てないと思いました。そこで前述のとおりかなりハードな練習をしました。おかげでUSオープン、台湾、ベルギーの大会で賞をいただきました。アメリカ、アジア、ヨーロッパの大会へ行けたことで世界の選手の試合を見ることができました。しかし、パラリンピックに選ばれるには世界大会で何度も勝ってランキングポイントを取らなければなりません。試合に出るには母と二人分の旅費や宿泊滞在費・通訳や登録料などお金がかかることがわかりました。スポンサーを見つけた人や仕事を辞めてプロになった人もいました。お金・技術・時間の三拍子揃った人が手にする世界だったのです。
 練習に練習を重ねたある日トイレで出血多量で倒れました。救急車で運ばれ意識を取り戻した部屋はICU。NSAIDs(非ステロイド性消炎鎮痛薬)の使いすぎによる腸管出血です。足の痛みに耐えかねて坐薬を大量使用したせいです。シドニーの予選に出られなかった悲しみを乗り越えて、復帰した全国大会で優勝した私は、アテネを目標にがんばりました。そんな時「世界の大会へは出場できない!」との宣告を自分で見つけることになりました。それは腸を正常にするため飲み始めた薬がドーピングに引っかかることを薬剤師の勉強会で知ってしまったのです。その後、和歌山銀行が合併し選手も監督もバラバラになり古川先生は遠くの学校へ転勤し環境も変わりました。市議選に出てお金もなくなり、世界への道は途絶えました。しかし、私を支え励ましてくださった多くの方々との出会いはパラリンピックへ出場できなくても得られた貴重な宝です。その日その瞬間を精一杯がんばったからこそ皆が助けてくれたのです。「体を壊してまでするのはスポーツではない。体あってこそすべてだ。他でもがんばれるよ。」と言ってくれた多くの皆様のあたたかい声に、期待に答えられなかった申し訳ない気持ちが消えました。今は感謝の気持ちでいっぱいです。
最後に恩返しとして出来ることといえば後輩の育成です。原点に戻り、日高地方障害児者のつながりを広める文化祭にわかやま卓友会の仲間が集まってくれることになりました。もし15年前の私のように感動して卓球を始めたいと思う選手が出てくれればいいなと期待しています。「卓球って楽しいな。」と最近気づいた私です。皆で楽しみましょう。